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白峯神宮は新しい

投稿:2014年4月24日

ooishi201404-2.jpg高校生の頃、小倉百人一首のテストが三学期の初めにあったこともあり、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」という崇徳天皇の歌を覚えました。再会を約束する恋の歌だと思っています。

最近になって、崇徳天皇は日本最大級の怨霊であることを知りました。それも生きながら自ら怨霊となると宣言した「大魔縁」だったのです。
『保元物語』によると、崇徳天皇は讃岐国で五部大乗経の写本作りに専念していました。戦死者の供養と反省の証に、完成した写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否したのです。崇徳天皇は激しく怒り、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込みました。その日から、爪や髪を伸ばし続け生きながら天狗になったと言われています。

白峯神宮の由緒にはこう記載されています。
「幕末、風雲急を告げる中、121代孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた75代崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。明治天皇は父帝の御遺志を継承され、宮地を和歌・蹴鞠の公卿宗家「飛鳥井家」の邸地に求められ、慶応4年(明治元年)9月6日、社殿を現在地に新造。奉迎鎮座されました。 続いて明治6年に47代淳仁天皇の御神霊を淡路島南端の御陵からお移して、御併祀になりました。


驚いたことに、白峯神宮は明治6年に造られたばかりの新しい神社だったのです。昭和天皇も崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせていました。球技全般の守護神とされていますが、これは多くの人たちに参拝していただくために考えたに違いありません。怨霊を封じるためには、参拝者が多いことも必要でしょう。私、これからも時々参拝したいと思いました。今出川駅から歩いて8分のところにある白峯神宮。静かな境内にたくさんの参拝者が訪れますようにと願っております。

白峯神宮



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