Report&Reviewレポート・レビュー

【レポート】寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」(泉屋博古館)

2026/09/30

kanei400-senoku_repo_1.jpg

2026年は江戸時代初期に行われた「寛永行幸」から400年の節目にあたることから、京都市内ではこの秋「寛永行幸四百年祭」として、各所で寛永行幸にちなんだイベントや展覧会が開催されています。

そのひとつが、泉屋博古館で開催の特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」です。
この展覧会が注目するのは行幸を一つの契機に発展した「寛永文化」。なかでも寛永行幸の主要人物で、将軍家から天皇へ嫁いだ女性・東福門院こと徳川和子を主役に、彼女と縁のあった人々との交流を通して寛永文化の姿に迫るという内容です。

※本稿は内覧会(2026年9月4日)の取材内容を基にしています。時期により、展示替にて一部内容が異なる場合がございます。予めご了承ください。

そもそも「寛永行幸」とは?

「寛永行幸」とは、寛永3年(1626)9月、大御所・徳川秀忠と将軍・徳川家光の招きにより、後水尾天皇が京都の二条城を訪れた出来事をいいます。

天皇が「自ら臣下の家を訪れる行幸」が行われたのは、歴史的にもそれまでわずか2度。当時はまたとない一大イベントでした。
御所へ参内する将軍や、全国の有力大名、二条城へ向かう天皇一家や公家衆らを一目見ようと大勢の見物人も集まり、京の街は空前の賑わいとなったと伝えられています。

また、寛永行幸は長く続いた戦乱の時代が終わり泰平の世が訪れたことを人々に印象づけ、公家と武家の文化が交わり合う新しい潮流を生み出すきっかけにもなりました。

400年前の京の賑わいを間近に感じる《二条城行幸図屏風》

kanei400-senoku_repo_2.jpg
寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」(泉屋博古館)展示風景
《二条城行幸図屏風》江戸時代・17世紀 京都市指定文化財 泉屋博古館蔵

展覧会の冒頭を飾るのが、「寛永行幸四百年祭」のキービジュアルにも使われている《二条城行幸図屏風》(京都市指定文化財、泉屋博古館蔵)です。屏風全体に描き込まれた人物は、なんと約3200人!華やかな行列の様子はもちろん、行列を見物する街の人々の姿までが活写されています。

この屛風の特徴は、上下に分けて時系列が異なる二つの場面が描かれている点。
上段は、中宮和子や後水尾天皇をはじめとする一行が二条城へ向かう、行幸そのものの場面。下段は徳川家光が後水尾天皇を迎えに京都御所を訪れる場面となっています。

kanei400-senoku_repo_3.jpg
《二条城行幸図屏風》(部分)江戸時代・17世紀 京都市指定文化財 泉屋博古館蔵
中宮和子の牛車部分

右隻上段、二頭立ての牛車に乗っているのが中宮和子です。他の車と比べても装飾が立派で、屋根には徳川家を示す葵紋が描かれ、行幸の主役の一人であることを示しています。
一方の後水尾天皇は牛車ではなく御鳳輦(ごほうれん)と呼ばれる輿のようなものに乗り、人の手で運ばれる姿で描かれています。これは帝は行幸の際に牛や馬に乗らないという決まりによるものだそうです。

kanei400-senoku_repo_4.jpg
《二条城行幸図屏風》(部分)江戸時代・17世紀 京都市指定文化財 泉屋博古館蔵
徳川家光の牛車部分

右隻下段では家光の乗る牛車に続き、徳川一門や有力大名たちの姿も見られます。馬の房飾りは赤で統一されている中、牛車のすぐ後ろにいる将軍の馬は金茶色です。これは限られた人にしか許されない禁紫色(紫色の房)をあらわすと考えられています。
そのなかで行列の後ろに一頭、将軍と同じ色の房飾りの馬が描かれています。これは行幸に参加した伊達政宗が無断でこの色を使ったという逸話を絵師が取り入れたのでは、と考えられているそうです。
細部に潜む絵師の遊び心も、この屏風の魅力のひとつといえます。

kanei400-senoku_repo_5.jpg
《二条城行幸図屏風》(部分)江戸時代・17世紀 京都市指定文化財 泉屋博古館蔵
行幸を見物する人々の様子。当時の人々の服装まで一人ひとり丁寧に描かれている。
上部では茶会も行われている。

行列を眺める市井の人々の描写も見どころ。
下段には店先から行列を見物している人々の姿が細やかに描き込まれていますが、建物の二階には誰も描かれていません。高貴な人物を二階から見下ろすことを避けたためだそうです。
また、上段には堀川通の上に設けられた桟敷席の様子も描かれ、茶を点ててくつろぐ人や、酔って喧嘩をしている人の姿まで見つけることができます。
京都の街の賑わいが400年の時を越えて伝わってきます。

kanei400-senoku_repo15.jpg
寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」(泉屋博古館)展示風景

同じ展示室には、行幸で行われた和歌会の懐紙や、当時のしつらえを偲ばせる金銀の調度などが展示されています。この行幸のためだけの御殿を建てるなど、徳川家が武家としての威信をいかに見せつけたかが感じられます。

将軍家と朝廷をつないだ女性、東福門院

kanei400-senoku_repo6.jpg
寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」(泉屋博古館)展示風景

屛風に続いては、本展の主人公である、徳川和子(後の東福門院)にスポットが当たります。

和子は二代将軍・徳川秀忠の五女として生まれ、元和6年(1620)に後水尾天皇のもとへ入内しました。将軍家の娘が天皇に嫁ぐというのは日本の歴史上ほかに例がなく、朝廷(公家)と武家の結びつきを象徴する存在でもありました。

kanei400-senoku_repo7.jpg
寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」(泉屋博古館)展示風景
葵桐紋散蒔絵糸巻太刀拵(太刀 銘 雲生 附属)江戸時代・17世紀 東京国立博物館

後水尾天皇と和子の結婚は菊(天皇家)と葵(徳川家)に例えられ、その組み合わせの意匠が展示されているゆかりの品のあちこちにも見られます。
徳川秀忠が娘の和子へ入内の際に持たせたと考えられる守り刀(雲生の御太刀)の拵は、皇室の菊紋と徳川家の葵紋が並んであしらわれています。
また、和子が生涯手元に置いて拝んでいたという仏舎利塔にも、菊紋を葵紋が挟み込むデザインがされています。徳川家が朝廷に対してどのような姿勢で臨んでいたかが伝わってきます。

kanei400-senoku_repo8.jpg
源秀飛《東福門院像》 江戸時代・文政10年(1827)京都市指定文化財 京都・光雲寺蔵
泉屋博古館のすぐ近くにある光雲寺にある和子の木像を描いた肖像画。
光雲寺は和子の菩提寺だった。

和子は真摯かつ温厚な人柄だったこともあり、後水尾天皇との夫婦仲は大変良好だったそうです。長子の女一宮はのちに明正天皇として即位し、和子はその後も3人の帝の養母として幕府と朝廷の架け橋となりました。

kanei400-senoku_repo9.jpg
寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」(泉屋博古館)展示風景

会場には和子が立后の際に着用したと考えられる、現存最古の十二単も展示されています。400年前のものとは思えないほど良好な状態で、当時の染織技術の高さがうかがえます。
寛永行幸の際は宮中で行われていた儀式の方法や衣装なども当時の識者たちが過去資料を参考に研究・復元して行っていたそうですが、和子の立后の際も同様だったといい、この十二単もその成果の一つです。

他にも、和子が当時注文したデザインの小袖なども紹介されています。小袖は武家の着物でしたが、和子が宮中に持ち込んだことで公家の女性達の間にも広まったと言います。和子はファッションリーダーとしての役割も担っていたのです。

寛永文化を紡いだ、身分と立場を越えた文化人の交流

20260904_132217.jpg
寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」(泉屋博古館)展示風景
東福門院《在原業平・小野小町像押絵》江戸時代・17世紀 大阪・佐太天満宮
京都の和子と江戸の家光の間で連絡役をしていた淀藩主・永井尚政に贈られたもの。

和子はかなりの趣味人で、後水尾天皇とともに身分を越えてさまざまな文化人と交流し、それが寛永文化の広がりにもつながっていきました。

中でも印象的なのが、和子自身が手がけた押絵です。押絵とは着物などの端切れを切り貼りして絵を描く技法で、和子の作品は人形に一着ずつ服を着せるような緻密な仕立て。着物の重なりから覗く内着まで丁寧に表現されており、豊富な生地を選べる環境にあったこともうかがえます。

kanei400-senoku_repo10.jpg
東福門院《能「楊貴妃」押絵》江戸時代・17世紀 泉屋博古館
千宗旦に贈られた押絵のひとつ。
宗旦の子孫である表千家に伝わり、近代になって住友家所蔵となった。

押絵は和子が親しくしていた人への贈り物となっていたようで、贈られた側でも大切に保管されました。そのひとりが茶人・千宗旦です。
わび茶の大成者・千利休の孫にあたる宗旦は、清貧を貫き権力者からの誘いを固辞し続けたと伝わりますが、数少ない交流を持った相手が和子でした(宗旦の妻がかつて和子の女官を務めていたことも関係しているといわれます)。

皇族である和子と町人である宗旦の身分には大きく差がありますが、二人の間には身分を越えた親交がありました。
例えば、皇室では贈り物を別の機会に人へ譲る(下賜する)のが通例だったそうですが、和子は宗旦からもらった竹の花入を誰にも渡さず自分で愛用するほどだったとか。
会場には、そのことを綴った手紙や、和子から贈られた布を使って宗旦が仕立てた茶入の覆いなど、二人の絆を物語る品々が展示されています。

kanei400-senoku_repo11.jpg
東福門院《馬郎婦観音像押絵》江戸時代・17世紀 滋賀・永源寺
文守が住持を務めた永源寺に和子が贈った押絵。
馬郎婦は中国の説話に登場する観音の化身の女性で、この話を和子に説いたのは文守だったそう。
亡き友との思い出を大切にした和子の心情が伺える。

もう一つ印象深いのが、滋賀・永源寺に伝わる観音図です。これも和子の自作で、夭折した僧侶・一絲文守に、生前果たせなかった約束の代わりとして贈ったものだそうです。
文守は和子だけでなく後水尾天皇とも親交があり、互いに手紙を送り合う仲でした。文守は近衛信尋や烏丸光広、小堀遠州などさまざまな文化人にも帰依されました。彼のような存在も、寛永の文化に影響を与えたのでしょう。

kanei400-senoku_repo12.jpg
京都府指定文化財《紗絵木戸文水指》江戸時代・17世紀 京都・法常寺
後水尾天皇は修学院離宮の傍らに窯を作り、好みに応じて焼き物を作らせていた。
これは自ら作陶に加わったものと記録が残る貴重な作品。

後水尾天皇が自ら手がけたと伝わる水指も見どころ。端正な筆致の書で知られる後水尾天皇ですが、この水指の武骨で飾り気のない素朴な姿に人柄がにじみ、蓋のつまみには天皇自身の指と思われる跡がそのまま残っています。
和子の押絵と同じく、皇族自らが手を動かし、文化の担い手として他者と交わっていたことをうかがわせる一品です。

kanei400-senoku_repo13.jpg
寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」(泉屋博古館)展示風景

会場には他にも、寛永行幸の参加者や当時を代表する文化人にまつわる品々が多数並びます。
皇族や将軍家はもちろん、公家や武家、町人までもが身分や立場を超えて創作活動を通じて交わり、新たな文化を紡いでいった――そんな寛永時代の様相が見えてきます。

kanei400senoku-repo14.jpg
寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」(泉屋博古館)展示風景

単に歴史の教科書に載るような出来事としてだけでなく、一人の女性の暮らしぶりや人づきあいをに注目した本展。寛永という時代の空気をより深く知るとともに、人々の交流がはぐくんだ文化をゆかりの地で間近に感じられることでしょう。

開催は10月18日まで。途中、一部展示替があります。

展覧会情報

寛永行幸四百年記念 特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」

会場:泉屋博古館(京都東山・鹿ヶ谷)会期:2026年9月5日(土)~10月18日(日)
※一部展示替有り

→ 詳細はこちら

最近の記事