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【レポート】大谷探検隊 吉川小一郎 -探究と忍耐 その人間像に迫る-(龍谷ミュージアム)

2025/06/05

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まだ明治維新後間もない20世紀初頭、後に西本願寺の22世宗主となる大谷光瑞の指示で、仏教伝来の歴史を探るべく中央アジアの考古調査を行った大谷探検隊。3次12年に渡り行われたその調査範囲は、他国に類を見ない広範囲におよび、現在まで世界的にも貴重なシルクロード研究の業績として伝えられています。

なかでも最も長期間にわたって調査を行った人物が、第3次隊として派遣された吉川小一郎です。吉川は約3年間中央アジアに滞在し、特にトルファンでは延べ半年に渡る仏教遺跡調査で様々な副葬品や考古資料を発見、高い成果を上げました。しかし彼がどんな人物だったのか、その人となりについてはまとまった資料がなく、謎に包まれていました。

そんな吉川の人間像に近年発見された新発見資料を通じて初めてせまった展覧会が、今回龍谷ミュージアムで開催されています。シルクロードを旅した男が見たもの、そしてその人生を追体験できる展覧会。本記事ではその様子をご紹介します。

※展示風景は前期のものです。時期によって展示の内容が異なっている場合がありますのであらかじめご了承ください。

大谷探検隊とは?

明治期、廃仏毀釈などの影響で仏教界は大打撃を受けていました。その状況を打破するため、西洋の教育制度を取り入れた人材育成や仏教研究を行おうとする動きが盛んになります。そんなときイギリスに留学していた大谷光瑞を中心に、中央アジアにおける仏教伝来史の現地調査を目的に結成されたのが大谷探検隊です。光瑞自身も参加した1902年の第1次隊にはじまり、以降3次12年にわたり調査を実施。その間に教典に名前はあるも場所が不明だった聖地を特定したり、遺跡調査で貴重な古文化財を多数発掘し、後のシルクロード研究に大いに貢献しました。シルクロードの遺跡調査は西洋など他国も行っていましたが、大谷探検隊は民間ながら他国に類を見ない広範囲におよんだ点も特徴です。

そんな大谷探検隊の最後、第3次隊に選ばれたのが、吉川小一郎でした。

吉川小一郎と大谷家の縁

今回の展覧会では、吉川がどのような人物だったのかを彼が書き残した手紙や関連資料、多くの古写真などを中心に紹介されています。

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中央アジアに旅立つ直前の吉川の写真と、展覧会タイトルの「忍耐」の由来となった、大正2年に吉川が家族にあてた手紙。
手紙は天山山脈を越えてウルムチ(現・新疆ウイグル自治区の中心都市)に到着した頃に書かれたもので、中国側の革命軍と銃撃戦が起きた話なども記されており、当時の世界情勢も伺わせます。

冒頭に展示されているのは、中央アジアの旅の途中で吉川が弟に書き送った手紙。展覧会のタイトルにある「忍耐」はこの手紙の中で吉川が志願兵として陸軍に入営していた弟に「忍耐が大事だ」と諭している言葉からとったそうです。添えられている写真は日本から中央アジアへ向けて発つ前日に撮ったもの。決意がみなぎる表情に、若き吉川の心境が滲みます。

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日露戦争中、大谷光瑞の弟・尊重が西本願寺の奉公活動(陣中見舞い)のため陸軍が駐留する奉天を訪れた際の写真。吉川もそれに随行していました。
吉川は当時から筆まめで、家族にあてた手紙には中国で見聞きしたものや経験が克明につづられています。

吉川は昔から西本願寺に関わる仕事をしてきた家の生まれで、大谷光瑞の弟・尊重の同級生でした。彼を通じて兄の光瑞や妹たちとも親しくしており、西本願寺の宗主家を支えていく存在として期待されていたようです。
日露戦争の際、吉川は西本願寺の奉公活動として中国に渡ります。これが初めての海外経験となり、入営時の経験は後に大谷探検隊として再び中国を訪れることになった際も大いに生かされたそうです。

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上は吉川が勤めた二楽荘の写真。
下は光瑞の妻・籌子(かずこ)と妹・武子がそれぞれ吉川に宛てた手紙。宛名があだ名になっているなど、親しい距離感が伝わります。

家族とも仲が良く勉学熱心な吉川を、光瑞は将来的に自分を支えてくれる存在として見込んでおり、帰国後は部下として登用。神戸の月見山別邸、その後六甲山麓に新たに建てた別邸・二楽荘を支える職員として吉川を向かわせました。
二楽荘は単なる光瑞の別邸としてだけでなく、学校(武庫中学)や図書館、宿舎、研究所なども備えた最先端の教育施設という側面を持っていました。大谷探検隊の収集品も二楽荘で保管していたそう。吉川はここで働き、学び、充実した時代を過ごします。

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二楽荘時代の吉川や当時の二楽荘の様子を伝える写真と手紙類。
二楽荘には温室もあり、メロンやマスカットなど高級果物の栽培研究も行われていたそう。

そんな吉川が第3次大谷探検隊に指名されたのは二楽荘に来てから数年後のことでした。出発直前の吉川が家族にあてた手紙では、二楽荘で仲間たちに盛大な送別会を開いてもらい大いに酔っ払ったという思い出とともに、光瑞に託された重要な使命を果たさんとする決意が記されています。

吉川がシルクロードで見たもの

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吉川がトルファンの遺跡で発見したミイラの写真(現物は新疆ウイグル自治区の博物館に所蔵)や実際にミイラを覆っていた掛布。
下半身が蛇の男神・伏犠と女神・女媧が絡み合う姿であらわされています。
当時の葬送儀礼や信仰の形を今に伝える貴重な資料です。

中盤では、第3次大谷探検隊での吉川の行動を紹介。ここでは吉川が中央アジア圏調査で発見した貴重な考古資料のほか、吉川が持参した本や愛用品、現地で吉川が撮影した写真類、旅立つ前に大谷光瑞から伝えられた発掘調査の指示書、そして中央アジアから家族にあてて送った手紙(時期によって入替)などが展示されています。

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大谷光瑞からの指示をまとめたメモ(発掘指示書)。
調べてほしい内容はもちろん、「現地の人に話をきちんと聞くように」といった旅先での心得まで、項目数は300以上にのぼるそう。
光瑞の大谷探検隊に対する熱意と吉川への期待の大きさが感じられます。

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明治45年(1912)に敦煌で吉川が橘瑞超と合流した際の写真。
下は大谷探検隊の調査成果の総括として後に出版された『新西域記』。

吉川は先発隊として先に現地に入っていた橘瑞超(2次隊・3次隊に参加)の交代要員であったため、防寒具やテントなどの道具類はほぼ橘から譲られたものをそのまま使用していたそう。その上で本や地図は日本から持参していました。展示されている吉川の愛用品にはイスラム文化に関する本や初心者向けの医学書もあり、現地の文化をきちんと学び長期間の旅に備えようとした真面目な姿勢がうかがえます。

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当時の野営風景の写真や、吉川が採取した植物標本。
吉川は登山も趣味にしており、本草学の知識を活かして植物の環境調査も行っていたそう。当時の中央アジア圏の植物標本は他に類がなく、世界的にも貴重なものになっています。

吉川は写真好きだった尊重の影響で写真技術に心得があり、現地で撮影した写真を随時現像して撮りためていました。当時はまだフィルムの代わりにガラス板を写真の原版にしており、撮ってから時間が経つと劣化してうまく現像できなくなるため、できるだけ早く現像するように心がけていたそう。そのため吉川の写真はどれも状態が良く、当時の中国や中央アジア圏の風景が活写されています。

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吉川が中央アジアから家族あてに書き送った手紙。イラスト付きの手紙には「(移動が長すぎて)自分のお尻と馬の背の皮が剥けてしまった」旨を詠んだ短歌が。泣き顔がなんとも痛そうです...
(時期によって展示替されるため、写真とは内容が異なる場合があります)

今回の展示のメインともいえる手紙類は、39通の中から随時入替えて展示されています。
手紙には滞在している町や宿の位置、滞在期間が記載されています。当時大陸と日本の間で手紙をやりとりすると相手に届くまで1ヶ月以上はかかってしまうため、日付を計算する必要があったためだとか。その結果、吉川がどのような日程・ルートで行動していたのかを知る重要な資料となっています。道中の出来事や吉川の感想がイラスト付きで記されている手紙もあり、吉川のユーモアある人柄が伝わってきます。

その他、会場では吉川が家族への土産として持ち帰った中央アジアの文物や、大谷家の人々から譲られた品など、吉川の人となりを伝える資料が紹介されています。

旅の終わりと二楽荘との別れ

吉川が帰国の途についた頃、出発時とは状況が大きく変わっていました。調査の後ろ盾であった大谷光瑞が、西本願寺の負債問題の責を問われ宗主を辞任することになったのです。
光瑞が立場を追われたという報せに危機を感じた吉川は、帰国の道中で北京に立ち寄った際に家族へあてた手紙で「自分がどこにいるかを他人伝えないようにして欲しい」と綴っています。光瑞と親しかった吉川は、調査資料などを守るためにも身を隠すように行動しなければならなかったようです。

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二楽荘の売却処理の担当者として働いていたころの吉川に関する資料群。
売却までは時間がかかるため、吉川は自分が二楽荘にいる間に大谷探検隊のシルクロード調査資料展を開催するなどしていたそうです。(右上は当時の展示風景写真)

帰国後に吉川を待っていたのは、自分が身を置いていた二楽荘の閉鎖と売却処分でした。光瑞からは「仕事が終わるまで戻らないように」と厳命され、吉川は担当責任者として事務交渉に追われることになります。自分が青春を過ごした場所の幕引きを己の手に任された吉川の想いはいかばかりだったでしょう。

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吉川が受章した紫綬褒章と当時の写真

数年がかりで無事二楽荘での仕事を終えた後、吉川は西本願寺専属の絵表所(寺院の内装や絵画の制作・修復を行う場所)に入ります。晩年には大谷探検隊での調査功績から紫綬褒章も受章。しかし、吉川が自らの旅の回顧録を書籍として出版するようなことはなかったといいます。多忙で執筆する余裕がなかったのか、光瑞の状況を慮ってか、歴史の専門家ではなかった自分が本を出すことへの遠慮もあったのか...真相はわかりません。

その代わりか、吉川は晩年、メディアの取材やインタビューに応じる形で自分の大谷探検隊での体験、中央アジアの旅の記憶を語っていました。その貴重な肉声を録音したテープが残っており、シアタールームで聞くことができます。
展示を見た後に生きた言葉としての吉川の回顧を聞くと、展示で見た手紙や写真の光景がさらに活き活きと感じられます。


一番長期間調査を行い、多大な成果を上げ、表彰もされた。なのに自身の著作を出さなかったこともあってか、歴史的には忘れられた存在となっていた吉川小一郎。そんな「忘れられていた人」の存在にスポットを当てた本展は、歴史資料の向こう側にいる「それを見つけた人」の存在をありありと写し出してくれています。

まだ吉川自身や大谷探検隊については不明な部分も多いため、今後も調査は続けていく予定とのこと。予期せぬ発見がまたありそうで、今後の展開も楽しみな展覧会でした。

会期は6/22まで。

大谷探検隊 吉川小一郎 -探究と忍耐 その人間像に迫る-(龍谷ミュージアム)

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