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【レポ】春季特別展「真宗と聖徳太子」(龍谷ミュージアム)

2023/05/02

親鸞さんと聖徳太子、後々まで続く深~いご縁の話。

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2023年、親鸞聖人の生誕850年記念のイベントは、特別展「親鸞-生涯と名宝」(京都国立博物館)の他にも、京都の各地で行われています。
西本願寺の真向かいにある龍谷ミュージアムでは、親鸞及び浄土真宗と聖徳太子の関係にスポットを当てた特別展「真宗と聖徳太子」を開催しています。京都国立博物館の特別展でも親鸞と聖徳太子については取り上げられていましたが、京博は主に親鸞自身の方に重きを置いた内容に対し、龍谷ミュージアムは親鸞を含めた浄土真宗全体に対する聖徳太子の関係に注目し、より深く迫る内容になっています。真宗と聖徳太子の知られざる深い縁を、覗いてみませんか?その展示の様子や見どころをご紹介します。

※この記事は取材時(2023/3/31時点)の展示内容を基にしています。観覧時期により内容が異なる場合がありますのでご注意ください。

聖徳太子と日本仏教の深い関係

そもそも、聖徳太子は日本仏教において大変重要な存在として、親鸞以前から大切にされてきました。というのも、聖徳太子は日本に仏教を広め定着させた始まりの人、とされたためです。

奈良時代、中国から日本に渡って戒律を伝えた鑑真は、聖徳太子は中国の昔の高僧が日本で生まれ変わって仏教を伝えた存在と考えていたそうです。その後、天台宗の祖・最澄も聖徳太子を深く尊敬し、折に触れて太子が建てたとされる四天王寺にお参りしており、天台宗の中でも聖徳太子信仰が受け継がれていきました。
また、親鸞が僧侶となった時の師匠・慈円僧正は、四天王寺の別当(運営責任者)をしており、彼も熱心な聖徳太子信仰者でした。慈円は聖徳太子の生涯を壁に描いた「絵堂」を復興し、多くの人に伝えることに務めました。

身近に聖徳太子を信仰する人がいて、かつ太子信仰の文化を持つ天台宗の本山・比叡山で学んでいた親鸞。彼が聖徳太子を尊敬するようになるのは、ごく自然なことだったのでしょう。

親鸞聖人と聖徳太子

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展覧会の最初は、親鸞の生涯を振り返りながら親鸞と聖徳太子の関係に迫る内容です。冒頭では、親鸞の生涯を描いた「伝絵(絵巻)」や「絵伝(タペストリー)」等を参照し、親鸞の人生の中で聖徳太子が登場する場面を紹介しています。

比叡山を下った29歳の親鸞は、聖徳太子が建てたとされる京都・六角堂に約100日間通って自分の求める仏教を考え続けます。ここで親鸞は夢の中で聖徳太子の本来の姿とされる救世観音にお告げを受けたことをきっかけに、師匠・法然のもとへ向かいます。これを「六角夢想」といい、親鸞と聖徳太子が関わる最も有名な場面です。

昔の人にとって夢は現実以上に重要な意味を持つものと考えられており、神様や仏様などからのメッセージとして信じられていました。人生最大の悩みどころ、大事な場面に現れて、生涯の師に導いてくれた聖徳太子は、親鸞にとって本当に大切な存在となり、御礼がしたい、讃えたいという気持ちが強まったことは当然のことだったのでしょう。

親鸞自ら筆を執る「和讃」と「廟窟偈」

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そんな親鸞の聖徳太子への深い想いを今に伝えるのが、こちらの親鸞直筆の資料です。

親鸞は数多くの和讃を作りましたが、聖徳太子を讃える和讃(仏様や高僧などを讃える詩歌)を晩年に200首以上を書き記しました。
こちらの《涅槃経・廟窟偈抜書断簡》は、親鸞が弟子のために自作の太子和讃を書き写し、その奥書の後に、涅槃経の一部と、聖徳太子が自ら阿弥陀如来に宛てて書いた手紙と伝えられる「廟窟偈(びょうくつげ)」の文章の一部を抜粋して書き添えたもの。わざわざ書き添えるあたり、親鸞は太子自身の文章として「廟窟偈」を大変重視していたことが伺えます。

展示品は断簡2点ですが、片方は石川県の専光寺、もう片方は徳川家康と三河一向一揆の際に争ったことで知られる愛知県の本證寺と別々の所蔵となっています。近年同じ本の一部だったことがわかり、今回の展覧会において400年ぶりに"再会"となりました。

真宗が生み出した聖徳太子像

続いては、浄土真宗の中で、聖徳太子のイメージがどう表現されるようになったかを、さまざまな作品を通じてたどります。

七高僧と並ぶ聖徳太子

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親鸞は、自分を浄土の教えを伝える法然のもとに導いてくれた聖徳太子を、浄土教、さらには真宗における祖師(日本の浄土教のはじまり、日本初の念仏唱者)と捉え、法然とともにインド・中国の高僧たちと同じく阿弥陀仏の救いの教えを伝えてくれた先達として崇めました。この姿勢はその後弟子たちに受け継がれ、浄土真宗の信仰のかたちとして広がっていきます。
実際、真宗では今も上の写真のように、法然や高僧たち、聖徳太子の掛軸を堂内に飾っているそうです。

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真宗における聖徳太子の扱いがよくわかるのが、高僧連坐像です。連坐像はインド・中国の浄土教の高僧たちの肖像を並べて描き、そこに聖徳太子も一緒に描かれました。展示室では時代による変遷や地域ごとの表現の違いが見比べられるようになっています。

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こちらは仏様を表す名号(名前そのものが阿弥陀如来の本願を示すため、光明を放っています)とも合体させた「光明本尊」。真宗における礼拝対象を全て1枚に集合させたものです。左にインド・右に中国と日本の高僧たちに加え、聖徳太子も描かれています。ここまでくるともう全部盛りです!

童子姿の聖徳太子

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展覧会に登場する聖徳太子像は、ほとんどが髪を左右で結んだ角髪(みずら)や、垂らした「垂髪」とする、少年時代(童子)の姿で表されています。大人の姿はあまり見当たりません。これは衣冠束帯の政治家としての姿や、物部守屋の変(丁末の変)で武装した際の姿は、真宗ではあまり好まれなかったためだそうです。(太子の生涯全体を描いた作品では登場しています)

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その童子姿の太子像も、よく見ると持ち物が違っていたり、服装もさまざまです。仏様の格好や持ち物はその仏様の役割を表すシンボルとされますが、これは聖徳太子像も同様。それだけ聖徳太子が複数の役割を兼ねていたことを示します。真宗では、笏(しゃく)か柄のついた香炉、あるいは両方を持ち、袈裟をまとった姿が多いようです。

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また、少年時代の姿と並んで多くつくられたのが、「南無仏太子」と言われる、袴をはいた赤ちゃんの姿の太子像。これは太子が数え2歳(実質1歳)のとき、東から上る日輪を拝んで「南無仏(なむぶつ/わたしは仏様に帰依します)」と唱えたという逸話を表したもの。浄土真宗では仏=阿弥陀如来と解釈し、日本で初めて念仏が唱えられた場面として重要視されました。そのため赤ちゃんの姿の太子像がよく作られていたそうです。お釈迦様にも生まれてすぐ言葉を発したという逸話がありますが、これにも太子が重ねられていたのかもしれません。

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こちらも作品によって顔つきがさまざまで個性を感じます。通常は身体は赤ちゃんでも顔はもう少し大人びた、凛々しい少年のような姿が多いそうですが、福井・毫攝寺(ごうしょうじ)のものは目が大きく顔は丸く、頬をふっくらとさせ、よりリアルな赤ちゃんらしい表現になっています。もしかしたら作った人の身近に赤ちゃんがいたのでしょうか。作り手のまなざしも感じさせます。
ちなみにこの像は、お寺の外で展示される機会は今回がはじめてだそう。この機会に出会っておきたい一品です。

聖徳太子絵伝とその周辺

浄土真宗では布教活動の一環として、聖徳太子の生涯を伝える掛軸タイプの「絵伝」が多数つくられました。当初は絵巻タイプの「伝絵」の方が多かったそうですが、絵を前に話者が解説する「絵解き」が盛んになり、一度に多くの人に見せることができることもあって「絵伝」の形式が広く普及します。三章では、この「絵伝」の時代ごとの変遷や、さまざまなパターンを見ることができます。

真宗で使われた絵伝は、主に祖である親鸞と師匠の法然の生涯を描いたもの、日本への仏教伝来の物語を描いた善光寺如来絵伝(こちらにも聖徳太子が登場します)、そして日本に仏教を定着させた聖徳太子の生涯を描いたものの4種。真宗では「四種絵伝」と称し、仏教の伝来から聖徳太子を経て法然・親鸞に続く、仏の教えの正統性を示すものとして重要視してきました。まずは仏教が日本に伝わる始まりの物語から入り、そこから法然や親鸞の話に展開していく形で布教を行っていたのです。

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聖徳太子絵伝や善光寺如来絵伝については、特に描かねばならない場面や描き方のルールがなく割と自由でした。そのためバラエティ豊富な表現の作品が多くつくられたそうです。
例えば、上の写真、江戸時代に描かれた《善光寺如来絵伝》(長野・善光寺大勧進蔵)では、聖徳太子をはじめ仏教導入賛成派と反対派が争った物部合戦の場面で、仏の世界から天部の神々が空から太子たちを加勢に来ている様子が描かれています。
他にも、空飛ぶ龍の車に乗って移動する聖徳太子や、聖徳太子が時の推古天皇にお経を唱え捧げると蓮華が降ってきてそこから仏様が出現するなど、なんだかファンタジックな表現をした作品も見られます。描き手や注文主の裁量に委ねられる部分が多かったそうで、好きな場面や盛り上げたい場面に脚色や演出を加えたのでしょう。その違いを見比べて楽しむのもおすすめです。

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また、今回の展示の特徴となっているのが、絵伝の高精細デジタル複製品も一緒に展示されているところ。どうしても現物では長年の損傷のため見えにくくなった部分もありますが、デジタル複製品は目の前まで近づいて見ることができます。デジタルデータで場面ごとにズームアップした解説もあり、大変わかりやすくなっています。
会期中には実際に絵伝を用いての絵解き実演も行われるので、絵伝がどのように使われていたかを体験することができます。

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デジタル複製品で特に目を引くのが、10幅の掛軸がずらりと並んだこちらの《聖徳太子絵伝》(現物は大阪杭全神社所蔵)!デジタル複製なので思いっきり近くに寄って見ても大丈夫。鮮やかな色彩と細やかに描かれた沢山の場面をじっくり楽しめます。
また、少し離れて全体を眺めてみると、文字を絵の上に載せず霞の部分に書いて邪魔にならないように配慮したり、ちょうど真ん中に聖徳太子が富士山を黒い馬で飛び越える場面を置き、そこから対称になるように、左右端に誕生と埋葬の場面、右に太陽・左に月を配置したり、全体がバランスよく見えるように構図が計算されていることがわかります。

アメリカに渡った聖徳太子像

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今回特別展示として、現在アメリカのハーバード大学に所蔵されている南無仏太子像についても紹介されています。正応5年(1292)の作で、現存する制作年代のわかるものの中では最も古い南無仏太子像といわれます。頬が丸くふっくらとして、とても赤ちゃんらしい姿のお像の中には、舎利や経典、小さな仏像、和歌やお札などさまざまなものが納められており、日本とアメリカの研究者によって戦前から研究が進められてきました。本体を会場まで持ち込むことは叶いませんでしたが、代わりにさまざまな方向から撮影した写真のパネルと、像内納入品の精細な複製が展示され、その姿を知ることができるようになっています。

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納入品を調べると、制作には沢山の尼僧、つまり女性たちが関わっていたこと、彼女たちが慕った西大寺叡尊という僧が亡くなったことを踏まえて作られたらしいことがわかったそう。叡尊は真宗ではなく律宗の僧ですが、彼も親鸞と同じく聖徳太子を深く信仰し、女性や貧困層、病人等にも広く仏の救いを説いた人でした。また、納入品には他の宗派の念仏札なども含まれていることから、当時の人々の仏教の信仰の多様性や、さまざまな宗派を越えたところにある聖徳太子の存在意義も感じることができます。

日米の共同研究は太平洋戦争で中断を挟みながらも現在まで続き、ちょうど2023年4月に研究成果が本となって出版されました(本も展示室で見ることができます)。聖徳太子は、宗派や時代だけでなく違う国の人同士をつなぐ懸け橋になっていたともいえます。

「始まりの人」聖徳太子が結ぶ縁

親鸞は太子を「和国の教主」と仰ぎ、日本の仏教の始まりの人として敬いました。日本の仏教はどの宗派も聖徳太子があってこそのもの。人々に新しい教えや考えを伝える際、まずはその前提となる始まりから語り、そこからきちんと続いたものであると示すことは、人々に正統性を説き信用してもらう上で大切なことでした。
そのため、親鸞の教えである浄土真宗では、布教の際には必ず聖徳太子の物語をセットで人々に伝えることになります。そして真宗が広まるということはすなわち聖徳太子の物語や信仰も広まるということになったのです。仏教を日本に広めた聖徳太子が、時代を超えて人々に仏様とのご縁を結び続けたのですね。

ちょうど親鸞聖人生誕850年の節目。この機会に、その知られざる深いご縁の世界を覗きに行ってみてはいかがでしょうか?


この展覧会は、京都国立博物館の「親鸞―生涯と名宝」とも相互割引が設定されています。内容も相互補完になっているので、併せて見るとより深く楽しめる仕様。ぜひハシゴして見るのもおすすめです!

春季特別展「真宗と聖徳太子」(龍谷ミュージアム)(~2023/5/28)

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