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【レポ】小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌 (レクイエム)(京都文化博物館)

2021/09/07

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小早川秋聲(こばやかわ・しゅうせい)という画家をご存じでしょうか。大正~昭和期に、京都を中心に活躍した日本画家です。

太平洋戦争の只中には、従軍画家として戦線へ赴き、多くの戦争画を描きました。一時は忘れられた画家となっていましたが、1995年に美術雑誌で戦争画の特集が組まれ、代表作《國之楯》をはじめ作品が取り上げられたことで注目を集めました。そして縁の地にほど近い鳥取県日南町美術館や、地元の研究者を中心に調査研究が続けられ、今回初めての大規模な回顧展が開催されることになりました。

今回集まった作品は、その大半が個人蔵。存在自体はわかっていても一般に公開する機会がなかったり、企画に向けての調査で新たに見つかった作品も多かったとのこと。
ほとんどの作品が関西では「初公開」と言ってもよいものです。

戦争画で知られる小早川秋聲。しかし彼が描いた作品は決してそれだけではありません。時代に翻弄された一人の画家が描いた知られざる世界を紹介する展覧会、その様子をご紹介します。

※このレポートの内容は取材時の内容を基にしています。時期により内容が異なる場合がございますので、予めご了承ください。

激動の時代を生きた「旅する画家」が描き続けたもの

今回の展覧会企画に携わった、京都文化博物館学芸員の植田彩芳子さんが小早川秋聲を知ったのは数年前だったそう。人づてに小早川秋聲と《國之楯》を知り、その後実物を見る機会を得て大変衝撃を受けたといいます。しかし他の作品がほとんど知られていないため、戦争画に留まらない画業全体を紹介する機会を、という考えから展示を企画されたそうです。

鳥取県にあるお寺の長男として生まれた秋聲は、母方の郷里であった神戸で幼少期を過ごします。その後、父が京都・東本願寺の経理を務めていた縁で、9歳で東本願寺の衆徒となります。秋聲は画家であると同時に僧侶でもありました。

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幼いころから絵が好きで博物館などに通って模写もしていた秋聲は、その後京都画壇の画家・谷口香嶠、後に山元春挙の画塾で日本画を学び、めきめきと頭角を現します。当初は師匠に倣い、歴史上の人物などを描いていたそうです。

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20歳の時には志願兵として日露戦争に従軍。当時の様子も、秋聲は画題として描いています。暗がりの中、焚火に照らされてシルエットが浮かぶ兵士の姿は、戦地の絵というよりは旅先のふとしたひとときを描いているように見えます。

秋聲が学んだ画塾は写生旅行が盛んであったこともあり、秋聲は非常に旅好きになっていきました。日本国内を旅して画文集(イラスト入りの旅行記)を出したり、中国、ヨーロッパ、アメリカと世界中を旅し、訪れた土地の風景や人々を題材にした絵を数多く発表しました。

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特に1920年末からの中国に始まりインド、ヨーロッパ、エジプトまで17か国にもわたる世界旅行は秋聲の人生の転機となりました。この時代に秋聲の画風は確立していったそうです。

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展覧会でも当時の絵やスケッチが展示されていますが、「絵で見る世界一周旅行」のような気分が味わえます。軽やかなタッチで描かれる世界の景色は、実感に基づいた人々の生活感や土地の香りを漂わせ、味わい深いものになっています。

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写真左の《長崎へ航く》は、オランダの港から日本の長崎へ向けて出港する船を見送る、現地の女性たちを描いたもの。小さな女の子は市松人形を手にしていますが、これは船乗りの父親からのお土産だったのでしょうか。女性たちの衣装には丁寧にオランダ更紗の模様が描かれていたり、皆伝統的な木靴を履いていたりと、取材の細かさを伺わせます。
まだ海外に誰でも行けるわけではなかった時代、外国に直に触れた秋聲の絵は、見る人に確かな異国のかおりを伝えていたのでしょう。

秋聲は精力的に文展や帝展に大作を出品し、画壇でも将来を背負う画家として期待と評価を高めていきました。

そろそろ秋聲は帝展で特選をとるだろう―そう囁かれていた時、戦争が本格化。秋聲を含め、日本の画家たちは否応なしに戦争に巻き込まれていくことになります。


秋聲は1931年の満州事変以降、従軍画家兼東本願寺の慰問使として戦地へしばしば派遣されるようになり、従軍画家として知られるようになっていきます。秋聲の画家としての円熟期が、戦争の時代と重なってしまったのです。

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戦争を描くといっても、それに合わせて秋聲の画風が様変わりしたというわけではありません。
注文を受けて勇ましい場面を題材にした絵も描いてはいるのですが、立ち込める霧や煙の向こうに旗を掲げる兵士など、あからさまではなく「ぼやかした」表現、心を熱く高ぶらせるというよりは静かに沁みるような抒情的な表現になっています。
勇ましいものや、地獄絵図のような光景という「戦争画」のイメージとは秋聲の作品はかけ離れています。

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《虫の音》は存在はわかっていたものの行方がずっと不明な状態で、現存すら怪しまれていたところ、今回の展示に合わせて行われた調査で再発見された作品だそうです。戦いのさなか、休息をとって眠っている兵士たちの姿が描かれています。
生死の境に立ち緊張を強いられ続ける兵士たちが、眠るときに見せる、何処か気の抜けた表情。秋聲はそんな、非日常の中にも確かにある人間らしさを描き留めたのです。かつて旅先で見た風景や人々の暮らしを描いた時と、彼が惹かれるものは変わらなかったのでしょう。

また、秋聲は僧侶として、戦地の兵士たちの心のケアや命を落とした者の供養なども担っていました。死が限りなく間近な状況において、兵士の死に際して思うことが多かったのか、死んだ戦友の埋葬の様子など、死を意識した作品も描いています。
戦争を最前線で見つめ続けた彼が抱いた想いが、随所に滲んでいるようです。

そして戦争も終わりに差し掛かった1944年。秋聲は《國之楯》を描きました。

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制作当時にこの絵を目にした人は思わず帽子をとって深々と頭を下げたり、その場に泣き崩れた人もいたといいます。
あえて将校の顔を布で覆って描かなかったことが、見る人が自分の知る誰かと重ねる余地となっています。同時に、同じように命を落とした沢山の、無数のひとたちの化身であるかのようにも見えます。

すぐ隣に当初に作成された素描が展示されており、本画と見比べることができます。当初は将校の顔の周りに光輪が描かれていたり、身体の上には降り積もる桜をあしらったりしていたことがわかります。しかし秋聲は後に、それを真っ黒に塗りつぶしてしまいったのです。本画にはうっすらとその痕跡だけが残ります。

それまでに秋聲が戦場で見てきたもの、そして戦争に対して感じたいろいろな思い、そのすべてが、横たわる、物言わぬ一人の将校の姿に集約されているようです。


戦後、戦争画を描いた多くの画家は、戦争加担者扱いされたり画壇に居場所を失うものも多くいました。秋聲も自らが戦犯扱いされて裁かれることすら覚悟していたといいます。
結局、秋聲がそのような目に遭うことはありませんでしたが、思うことはあったのか、加えて病を抱えてしまったこともあり、秋聲は大規模展へ出品を控えるようになります。しかし絵筆を執ることはやめず、雑誌へ挿絵や文を寄稿したり、小品を多く手掛けています。

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戦後の秋聲の作品は、仏画や仙人といった僧侶である秋聲らしい仏教色のあるものが多く見られます。絵を飾る表装は秋聲が自ら布地を選ぶなどしてこだわったそうで、彼の美意識が見えるポイントになっています。

どこか隠居生活のような感じを受けますが、秋聲は世界の動きから目をそらしたわけではありませんでした。

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写真左の《聖火は走る》は、1964年、東京五輪が開かれた際に描いたもので、モチーフは聖火を手に走る若者の姿。戦争の時代を越え、世界の人々が集まる舞台で走る若者の姿に、秋聲は心動かされたのでしょうか。小さな絵ながら、描かずにはいられなかった...そんな筆の勢いも感じます。

画家としてのピークが戦争の時代に重なり、人の死が間近な時代の過酷さを目の当たりにした小早川秋聲。
展示室に並んだ数多くの作品は、一人の画家が人生という旅路を描き留めたそれのようです。戦争の時代を生きた人の人生から、戦争を切り離すことはできません。でも決してそれだけの人生ではないことを、秋聲の残した絵の数々は、今に伝えてくれています。

京都展の開催は9/26(日)まで。
京都展の後は、東京ステーションギャラリー、鳥取県立博物館へも巡回予定です。

小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌 (レクイエム)(京都文化博物館)

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