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【レポ】綺羅(きら)めく京の明治美術-世界が驚いた帝室技芸員の神業-

2022/08/26

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

京都市京セラ美術館で開催の特別展「綺羅(きら)めく京の明治美術-世界が驚いた帝室技芸員の神業-」。今日の人間国宝(重要無形文化財保持者)の前身ともいえる、戦前の制度「帝室技芸員」。これに選ばれた京都ゆかりの作家から、特に明治期前半に活躍した作家を代表作とともに紹介する展覧会です。

今回取り上げられる明治期前半は、これまでまとまった形で取り上げられる機会が少なかった、いわば"空白の時期"。近年になり「超絶技巧」のフレーズで紹介されることも増え、注目が高まりつつあります。
今回の展覧会のキーワードである「帝室技芸員」は、ちょうどその頃に生まれた、当時の時代背景を反映した制度。これを切り口にどんな作家がどんな活動をしてきたのかを紐解いていきます。

このレポートでは、そんな展覧会の見どころや展示の様子をご紹介します。

※記事は取材時(2022年7月)の展示内容を基にしています。観覧時期によって展示内容が異なる場合があります。予めご了承ください。

作家の姿勢を変えた、帝室技芸員制度

その前に、まず「帝室技芸員」とは何かを知っておきたいと思います。

幕末から明治初頭にかけ、急激に社会構造が変化したことで需要や顧客、幕府や諸藩などの後ろ盾を一気に失い、困窮する美術工芸家が多くいました。そこで、皇室が後ろ盾になって優秀な作家と技術を保護するものとして誕生したのが「帝室技芸員」制度です。

帝室技芸員は、作家活動の保護や支援の代わりに、国や宮内省などから依頼を受けて作品を制作することが求められました。時には万博や勧業博といった催事向けに国や地域、分野を代表して作品を制作することもあり、そのため帝室技芸員はそれにふさわしい各分野のトップクラスの作家が任命されました。
これは作家たちにとっては国を代表する優秀な作家として認められたというステータスでもあり、同時に「日本や各地域の美術工芸を背負って立つ代表者」としての姿勢が生まれていくことになりました。

帝室技芸員の制度は、明治23(1890)年~昭和19(1944)年の55年間続き、のべ79名が任命されています。その中で今回取り上げられるのは、京都にゆかりのある19名。なんと約1/4にあたります。

「京都」が生んだ作家たちで辿る、明治の美術工芸

展覧会は前半は絵画、後半は工芸に分けられており、帝室技芸員に選ばれた順に作家が作品とともに紹介される構成になっています。各コーナーには作家の略歴や作風を紹介するパネルもあり、作家の人となりや活動を知ってから作品を見る流れです。

絵画編

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

今回紹介されている作家は、京都出身者や京都を拠点に活動した作家のほか、京都で絵を学んだ後に他の地域で活躍した作家も含むため、少々基準は広めです。しかし、京都にルーツを持つ作家が多いことからは、幕末明治の混乱期にあっても、近代の日本美術界における京都の存在感や影響力が根強かったことが伺えます。

例えば、川端玉章。彼は京都生まれで、円山派の流れを汲む画家の下で日本画を学んだ人物です。後にパトロンだった三井家に従って江戸へ移住し、以降東京を拠点に活動しました。そんな玉章は、岡倉天心に請われて東京画学校の教師となり、京都生まれの円山派の画法を東京の画家たちに教える身となりました。他の地域で活躍しながら、京都の美術を伝える役割を担ったのです。

京都の画家であることに強い思いをもって活動した人もいます。
望月玉泉は、代々宮中の御用絵師を務めた家の生まれで、円山・四条派双方に学んだ京都画壇に影響力のあった人物。京都府画学校の立ち上げに携わり、京都画壇を担う後進の育成にも尽力しました。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

展示作品《雪中芦雁図屏風》(上写真)は、京都で行われた第四回内国勧業博覧会(1895年)に出品された作品です。ちょうど京都市京セラ美術館のある岡崎公園を会場に開催された第四回内国勧業博覧会は、幕末からの混乱で衰退した京都の復興を全国に知らしめるという意味もあり、京都の人々は分野問わず大変強い思いをもって望んでいたそうです。

この《雪中芦雁図屏風》は、博覧会の中で三菱財閥が主催した「東京と京都の画家にそれぞれ屏風を作らせて東西対決をする」という企画を受けて制作されたそうです。伝統的な狩野派の構図、円山・四条派の写生に根差した丁寧な鳥の描写と、所謂"京都らしさ"を全面に出した作品で、あまり尖った特徴はありません。しかし、そのオーソドックスさにこそ、「京都の日本画とはこういうものだ!」という、京都の代表者として参加した玉泉の気概が込められているようです。

明治期前半、京都の画家たちはそれぞれに、京都、日本を代表する絵とは何かを考えながら自らの作品に向き合っていたようです。向かう方向は同じでも、やり方進め方は人それぞれ。画一性を求めないその空気感が、作家の個性を育てたのかもしれません。
作家ごとに作品を見比べると、どういうところに彼らがどこにこだわりをもっていたのかが感じられます。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

絵画編のラストには、エピローグとして竹内栖鳳など明治後半以降の作家の作品も少し紹介されています。今回は、前の世代の作家たちの活動を受けて、次世代にどうつながって行ったのかを考えながら見てみたいところです。

工芸編

日本の工芸品は明治時代、外貨獲得の要として重要視されていました。帝室技芸員制度が生まれる前、その前身として「宮内省工芸員」という工芸作家を対象にした制度が作られていたそうで、日本の美術工芸品の保護政策はまず工芸からだったことが伺えます。優れた工芸品は盛んに海外の万国博覧会に出品されたり、産業としての発展を見据えて盛んに新しい技法が発明され、発展していきました。

なかでも早期から支援に力を入れられていたのが、染織と陶芸です。

本展で紹介されている染織作家の一人・5代伊達弥助は代々続く西陣織の織屋の生まれ。西洋の近代的な織物技法と伝統的な西陣織の技法、そして日本画の画法を収め、「幽谷織」や「琥珀織」など、新しい織物の技を多数生み出して近代の西陣織を大いに発展させました。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

その伊達弥助の没後、空席を埋める形で帝室技芸員となったのが、現在も続く川島織物の二代・川島甚兵衛です。彼はドイツに渡った際に伝統のゴブラン織を見て、「日本の綴織も海外と戦える」と考え、絵画のような模様を自在に織りだすことができる綴織の技を活かした美術織物に取り組みました。上の写真は川島が手掛けた美術織物とその下絵です。川島は日本画家や図案家とも協力し、日本の染織技術を存分に生かした作品を世界に送り出しました。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

美術織物だけでなく、部屋の内装、家具調度類に用いる布も川島は手がけました。展示室では、川島の布を用いた明治天皇使用の玉座なども展示されています。西洋風のデザインと日本の技が融合した和洋折衷のスタイルが見どころです。

陶芸からは4名の作家が紹介されています。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

伊東陶山は、今では廃れてしまった焼物「粟田焼」の作家。京焼の中でも粟田焼は高級焼物を主体としており、明治期には薩摩焼の表現を取り入れた「京薩摩」の作品を海外に多く輸出しました。陶山はその先頭に立った人物です。展示品にも日本画を学んだ腕を活かした京都らしい趣の絵付けが特徴としてよく現れています。
海外輸出品が多かったため、作品があまり日本に残っておらず謎の多い人物だったという陶山。今回は個人コレクターの協力でまとまった形で展示が叶ったそうです。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

海外輸出で日本の陶芸は大きく発展しましたが、そのうち作品の質が落ちていき売り上げは低下、一気に陶芸界は衰退してしまいます。これに立ち向かった人物が清風與平。彼は一点ごとに丁寧に作られた京焼本来の美を取り戻すべきと考え、新しい技術開発に取り組むことで陶芸界を盛り返そうとしたのです。
展示品は中国の焼物技法を取り入れて生み出した「太白磁」。国産品でも中国陶磁に負けない作品ができる!と実践した作品です。日本らしい文様をデザインしたところに、彼の日本の陶芸界を背負う矜持が伺えるようです。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

こちらの写真は宮川香山の作品。当初は右側の豪華で緻密な彫物で装飾された「高浮彫」の作品で注目され焼物初の重文指定も受けます。焼物における"超絶技巧"の代表格として知られる彼ですが、「高浮彫」の作品は10年ほどでやめてしまい、後半になると左側の中国当時の影響を受けた釉薬の色合いが特徴的な「釉下彩」の技術を活かした作品へと作風が変化していきます。明治時代になると化学技術の発展によりそれまでは出せなかった鮮やかな発色の釉薬が使えるようになったことから、その色彩を存分に生かした作品が作られるようになりました。新たにできるようになったことを貪欲に取り入れようとする姿勢が伺えます。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

作風の豊かさで言えば、初代諏訪蘇山も見どころ。青磁で名を馳せた作家なので、勿論会場にも青磁作品が展示されていますが、実は青磁以外の作品も豊富です。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

特に注目が、ユーモラスな表情が目を引く妖怪人形。写真は一つ目小僧ですね。蘇山は元々絵付けを学び彫刻も得意だったそうで、青磁に注力する以前は焼物の技を活かした人形など陶彫の作品を多く制作していたとのこと。こんな意外な名品に出会えるところも、この展覧会の見どころです。

他の分野からもユニークな品が登場しています。

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「京都市京セラ美術館 特別展 綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」 展示風景

例えば、こちらは金工の加納夏雄の作品。幕府御用の彫金師で刀装具の職人だった彼ですが、明治になり刀装の需要が失われたこと方針転換を余儀なくされます。元々画家志望で京都で四条派の絵画を学んでいた彼は、その技を活かし大阪造幣局で明治金貨のデザインと原型制作を手がけました。まだデザインを専門とする人がいなかった当時、限られたスペースに緻密な図案を描き繊細に彫り上げられる技術を持っていた加納の存在はとても大きなものだったのでしょう。
今回はその貴重なデザイン画と実際のコインが、他の彫金作品とあわせて展示されています。京都で学んだ技が彼の下支えになったことは確かでしょう。


今回展示企画に携わった後藤学芸員にお伺いしたところ、今回の展示に関しては、当初作家によって所蔵する作品数に非常に偏りがあり、作家によってはほとんど作品がないという状態だったそう。その後様々な方面、特に個人の方から協力を得られ、展覧会を開催することができたそうです。

というのも、この時代の作品は元々海外に輸出されたものが非常に多く、日本にあまり残っていないという背景もありました。それが近年、日本のコレクターが海外から買い戻すなどして、日本国内でも良いコレクションが増えてきているそうです。

後の大正・昭和期の竹内栖鳳や横山大観に比べると、明治前半の作家たちはまだ知名度が高いとは言えません。また、明治=近代はまだ「新しい」というイメージから史料的価値が低くとらえられがちで、江戸時代以前に比べるとまだまだ研究が進んでいない部分が多いようです。
それが良いコレクションができ、少しずつ注目度が高まることで新しい発見が生まれる土壌が整いつつあります。

ここで紹介した作家は本当に一部ですが、近世から近代へ変化する、狭間の時代に活躍した作家たちの作品が集ったこの展覧会。これをきっかけに、「明治の美術」に今後どんな発見があるのか、その展開にも期待したいところです。


特別展「綺羅(きら)めく京の明治美術-世界が驚いた帝室技芸員の神業-」(~2022/9/19)

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