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前後期で大きく展示替えあり。 円山応挙から近代京都画壇へ@京都国立近代美術館

投稿:2019年11月25日

「円山応挙」と目にして飛びつくなかれ。タイトルをよくご覧ください、本展は円山応挙に始まる円山・四条派の画風が、どのようにして近代京都画壇へと受け継がれていったのか、近世までの博物館と近代以降の美術館という境を取っ払って、京都画壇の系譜を作品を通して辿る展覧会です。
 
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「円山応挙展」は、繰り返し開催され、若冲が奇想の絵師として一躍世に知れ渡る以前から応挙は私たちにとてもなじみが深い江戸時代の京の絵師でした。円山応挙が生きた18世紀後半の京には、個性豊かな絵師たちが群雄割拠の状態でした。尾形光琳が没した年に生まれた与謝蕪村と若冲、蕪村と共に「南画の大成者」と称される池大雅、そして応挙は蕪村や若冲の17歳も年下です。しかしながら彼らを差し置いて応挙は、文化2年(1775)版『平安人物志』では、画家部門で1位となり、生涯それを守り続けたそうです。


では、何故それほど応挙はこの時代に受け入れられたのでしょう。
応挙が活躍した江戸中期は、新興の商人を中心とした町衆たちが台頭した時代でした。応挙は丹波国に生まれ、京に出て石田幽汀に弟子入りするも、独学で様々な絵画を学び、住み込みで働いた玩具商では眼鏡絵を描いて遠近法をも自分のものとしていました。西洋銅版画を目にする機会もあったかもしれず、博物学や本草学のブームは彼を後押しすることとなりました。この時代の絵師たちの交友関係に必ず登場する大阪の文人にして博物家の木村蒹葭堂や中国の画家・沈南蘋や鶴亭の写実性のある画法の影響もあったに違いありません。

応挙の革新的な点は「写生」実物を正確に写生し、この写生を元として二次元の平面により本物らしく構成し描きだしました。今の私にとっても、漢学の素養や教養がなくても応挙の作品は、美しく受け入れやすい様に、当時の市井の人々にとっても平易で分かりやすく、自分の家に飾りたい絵で、新興の町人衆を中心に世間の圧倒的な支持を得て、人気の絵師となりました。そんな応挙の人気にあやかって応挙の門を叩いて弟子入りを請う人は後を絶たなかったようです。そこには展示されている山跡鶴嶺が描いた応挙の肖像画からも伺える実直で温雅なその性格にもあったように推察できます。


「円山・四条派」のもう一人の立役者は呉春です。
京のボンボンとして育った呉春は、与謝蕪村に師事し当時京ではそこそこ知られた絵師でした。妻と父を相次いで亡くし、師・蕪村の薦めもあって池田に移り住みます。その地と人びとの温かさに癒されて「呉服の里」で初春を迎えたことから「呉春」と名のるようになったそうです。京に戻った呉春は、蕪村亡き後応挙の門をたたきますが、応挙は友として迎えたとも伝えられています。この辺も応挙の性格を表しているような気がします。

呉春は、大乗寺の障壁画制作にも加わっています。蕪村に文人画や俳画を学んだ呉春には、田舎育ちで苦労人の応挙にはない、都会的なセンスと洒脱な情趣の世界と筆墨の美があり、応挙の写生画に新たな息吹を吹き込み、独自の画風を生み出しました。そもそも応挙も、同時代の絵師たちも四条辺りに住んでいたのですが、呉春やその弟子たちの多くが四条界隈に住んだことから「四条派」と呼ばれるようになりました。この二派が「円山・四条派」となって、近世以降の京都での主流となり、近代以降も京都画壇に脈々と受け継がれていくことになりました。

本展の構成は、応挙寺とも呼ばれる「大乗寺」の襖絵の立体再現展示から始まる導入部と、描かれるモチーフによって「動植物」「人物」「風景」に章立てが分かれています。

昨今多い立体再現展示ですが、本展ではぐっと近くで鑑賞できるのが凄い!ストローク一筆一筆を間近で確認して、離れて墨の色の違いや、構図を眺めてみる。大乗寺の襖絵は応挙一門が描き、本展では応挙が描いた3つの部屋とその子応瑞が描いた『蓮池図』が展示されています。応挙は一度も大乗寺を訪れることなく全襖絵の空間プロデュースをしたそうで、なんとこれは立体曼荼羅になっているとの説明にびっくりです。水墨で金地に描かれた『松に孔雀図』の制作は寛政7年(1795)で応挙の没年に描かれており、最晩年まで描き続けた衰えのない画力が迫ってきます。

「円山・四条派」は、孔雀、虎、鯉、狗など同じモチーフを繰り返し描いているわけですが、作品をモチーフごとに並べてみるとどこが同じ、似ていて、どこが違うのかが見えてくる?それは画家の個性や独自の画風であったり、描く画家の時代背景が影響していたりするようです。

動物では、はずせない応挙のコロコロとした“わんこ“、すっと引いた輪郭線と面でフワフワ感が出ています。円山・四条派の近くにあり、その影響を受けた「原派」など他の流派も紹介されています。「森派」では、大阪で人気絵師だった森狙仙が石燈籠の中にギューギューの子ザルを描いた『雪中燈籠猿図』はとても愛らしく、「岸派」の岸駒は、猫っぽい応挙の虎に比して、ぐっと勇猛な虎を描いています。国井応文・望月玉泉『花卉鳥獣図巻』が覗き込むほうも息を詰めるような思いの線の1本1本で、見応えありでした。
 
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人物画でも美人画と言えば上村松園に行きつきますが、気品ある美人画は応挙に倣ったものでした。応挙は人物を描くとき、人体を描いた上から着物を描いたとはよく聞く話ですが、当時流入したオランダ医学で「解剖学」が知られるようになり、そこから人体の構造に更に興味を持ったようです。一方、呉春は登場する人物のキャラクターに目を向けて描いたようです。

応挙は、中国風の山水画だけでなく京都の風景も描き、近世の画家たちも川の流れの表現など学ぶところは多かったのではないでしょうか。呉春は線を重ねる披麻皺を多用するなど南画風の風景画を描いていましたが、応挙を知ることにより写実性も加味した絵を描くようになったそうです。動物を描いた作品が多いように思っていた木島櫻谷の『山水図』や、山元春挙『瑞祥』の切り立った岩や美しい色使いに目が止まりました。

明治になると東京ではフェノロサや岡倉天心の指導の下、日本画の模索が始まりますが、京都では「円山・四条派」の流れが画塾として脈々と受け継がれながらも、東京より早く明治13年(1880)には京都府画学校が設立されます。渡欧した竹内栖鳳などは光や空気を描こうとする新しい絵画も生まれてきます。本展では竹内栖鳳、上村松園までを一区切りとしていますが、その後の流れは4階の第二会場へと続いています。4階会場では、山口華楊や福田平八郎、上村松篁までも展示されており、円山・四条派の裾野が広いことを改めて気づかされます。
 
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また、京都画壇の作品は、京都の伝統産業と結びつき、刺繍や工芸品となって海外への重要な輸出品となったことも見逃せない点でした。

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十二代西村總左衛門 刺繍「孔雀図屏風」
1900-10年

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並河靖之 有線七宝『桜蝶図平皿』明治時代


本展覧会は、代表的な円山・四条派の作家の作品が展示されており、どの作品もみのがせない。前期後期で大きく展示替えがあるので後期展にも是非足を運びたいと思っています。

 



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