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【レポ】親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞-生涯と名宝」

2023/04/14

親鸞さんってどんなひと?
至宝から見える、等身大の「人」の生涯

shinran850_repo (1).jpg2023年は、鎌倉時代に活躍し浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)聖人の生誕850年の年。浄土真宗では生誕と御遠忌、各50年の節目ごとに、宗内各派の枠を越えて協力し、記念の展覧会を開催しています。今回は京都国立博物館の特別展「親鸞ー生涯と名宝」がそれにあたります。
京都の西本願寺・東本願寺は勿論、全国各地から集まった展示作品は約180件、ほぼ半分は国宝・重要文化財という大変豪華な内容。親鸞をテーマにした展覧会としても過去最大のボリュームです。

しかし、親鸞という名前は聞いたことがあっても実際どんな人かはあまり知らない方も多いのではないでしょうか。親鸞さんってどんな人?その生涯と人となりに絵や直筆のお手紙、書物などの資料で迫るのが「親鸞ー生涯と名宝」展のコンセプトです。このレポートでは、展示の様子と見どころをご紹介します。

※この記事は2023年3月の取材内容に基づきます。観覧時期によって展示内容が異なる場合があります。予めご了承ください。

序論:親鸞さんの思考の基礎

展覧会は3階が「序論」、2階が「本論」、1階が「各論」と大きく3つに分かれており、序論では親鸞の教えの基礎となった経典や、親鸞が影響を受けた高僧たちが紹介されています。親鸞の考え方のベースに触れられるエリアです。

親鸞さんの信じたもの

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最初のコーナーでは親鸞の信仰の中心、阿弥陀如来と浄土信仰に関する資料が並びます。阿弥陀如来とは、仏教において、西にある極楽浄土におり、生きとし生けるもの全てを死後浄土に導き救ってくれるとされる仏様。浄土真宗の本尊でもあり、有名なお念仏「南無阿弥陀仏」は「私は阿弥陀如来に帰依します」を意味します。親鸞はこの阿弥陀仏の救いについて書かれた「浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)」を熱心に学んでいました。

shinran850(3).jpg国宝《観無量寿経註》親鸞筆 一巻(部分)鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺蔵
【展示期間:3/25~4/30(巻替有り)】

そのうちの一つ・観無量寿経を親鸞が自ら書き写したもの《観無量寿経註》がこちら(展示は~4/30まで)。
真ん中にお経の本文が書かれ、周囲の余白や隙間はびっしりと書き込み(参考書の注釈など)で埋め尽くされています。経典は仏教における教科書のような存在ですが、それに真摯に向き合い熱心に学ぶ親鸞の姿勢が伝わってきます。

尊敬する7人の高僧たち

そんな親鸞が特に尊敬していたのが、「浄土三部経」の教えを伝えたとされるインド・中国・日本の7人の高僧たち。親鸞は彼らがいたからこそ自分は阿弥陀様や仏の救いと教えを知ることができたと思っており、彼らへの尊敬と感謝の想いを「和讃(仏さまや先人の徳、経典や教義を日本語で賛美する歌)」にしたためました。この親鸞の姿勢は浄土真宗そのものに受け継がれ、7人の高僧たちがお釈迦様等と一緒に描かれたり、別々の絵も一緒に並べて飾られたりしています。

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ここではインドの僧で大乗仏教の祖・龍樹や天親、中国の曇鸞・道綽・善導、そして日本の源信(恵心僧都)・源空(法然)まで、7人をそれぞれコーナー分けして紹介しています。
宗派などはそれぞれ異なりますが、それを越えて尊敬すべき人と親鸞が定めていたのが面白いところ。

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7人の高僧の最後に紹介されている源空は、親鸞が直接教えを受けた師匠・法然上人のこと。法然は阿弥陀仏を信じそれを意味する念仏を心を込めて唱えれば誰でも極楽浄土へ行けると説き、親鸞の考え方の基礎を作った人。法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗には違いがある(浄土宗は念仏を何度も唱えるよう教えますが、真宗では念仏を信じれば良いとする、浄土宗は仏画や仏像を本尊とするが真宗は名前を書いた「名号」が本尊、等)ため宗派は分かれますが、浄土真宗では法然も大切な先達として崇め、儀式の際は肖像画を一緒に飾ったり、法然の生涯を描いた絵巻を大切に伝えています。親鸞の師匠への想いが今も受け継がれていることを伺わせます。

本論:親鸞さんの人生 波乱万丈の90年

伝絵(でんね)でたどる、親鸞さんの波乱万丈物語

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本論では、親鸞の生涯を描いた絵巻物《親鸞伝絵》を中心に、親鸞の生涯を辿ります。《親鸞伝絵》は親鸞の没後三十三年忌(永仁3年/1295)に、曾孫の覚如が作らせたもの。会期後半の中心となる伝絵はその最終版(完成版)とされる康永本で、修理後初公開となります。

展覧会では展示室ごとに伝絵を主に4つの場面に分け、各場面にあわせて関連資料をまとめて展示しています。まずは伝絵を見て、その後他の資料を見ることで理解を深められるようになっています。

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例えば、最初の部屋では「出家」の場面を紹介しています。京都で公家・日野家の子として親鸞は生まれます。母は源氏の血筋といわれますが、はっきりしたことはわかっていません。親鸞は9歳で親元を離れお寺に預けられることになります。展示室には、父母の姿を描いた貴重な肖像画や、親鸞の実家・日野家の家系図等が並んでいます。

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その後親鸞は比叡山に入り僧侶として厳しい修行を行いますが、29歳の時に山を下りてしまいます。その後親鸞は東山に暮らす法然を訪ね、「阿弥陀如来を心から信じ念仏を唱えれば、どんな人も阿弥陀如来によって救われる」という教え(専修念仏)に出遭います。身分や性別などに囚われない、誰もが得られる救いの道。これこそ自分が探していたものだと確信した親鸞は、法然の弟子となります。絵巻の中では草庵の縁側から法然を訪ねる親鸞の姿が描かれています。

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その後親鸞は「釈空」という法名を貰い、法然の主著『選択本願念仏集』の書写を許されるなど、法然の信頼する弟子として法然教団の中でも立場を得ます。ですが法然の説く教えは当時の厳しい修業を重視する仏教とは相容れず、既存の仏教寺院から反発や妨害を受けます。展示作品には当時、法然たちの布教活動をやめさせろと訴えた書状をまとめたものなども見ることができます。

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そしてとうとう朝廷により法然と親鸞を含む門弟たちは罪人とされ、僧籍を取り上げられて流罪になってしまいます。絵巻には師匠たちとの別れを惜しむ場面が描かれています。親鸞はこの別れ以来、法然と生前のうちに再会することは叶いませんでした。

shinran850_repo (10).jpg《親鸞聖人影像(有髪御影)》室町~江戸時代(16~17世紀) 茨城 専照寺蔵
【展示期間:3/25~4/23】

親鸞は妻を伴い越後に流されます。この時の姿を描いたとされる肖像画が《親鸞聖人影像(有髪御影)》(展示は4/23まで)。僧籍を取り上げられ身分上は俗人とされたため、この時親鸞は髪を剃らずに延ばしていたそう。しかし袈裟姿なところに、僧侶としての己の生き方を貫く想いも感じられます。

後に親鸞は罪を赦され僧籍を取り戻しますが、すぐに京都には戻らず関東各地を歩いて布教に勤しみました。

親鸞さんと家族のはなし

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60代の頃に京都に戻った親鸞は、その後90歳で亡くなるまでの約30年間、布教活動の傍らで自身の考えをまとめた著書の執筆に励みました。
最後の「往生」の場面をまとめた展示室には、親鸞の晩年とともに、その家族にスポットが当てられています。壁面には、親鸞の肖像を挟んで左右に、妻の恵信尼(えしんに)、末娘の覚信尼(かくしんに)、息子の善鸞(ぜんらん)の肖像や関連資料が展示されています。

この肖像画は本来別々の寺院に所蔵されているため、同時に並ぶ機会はほぼありません。展覧会で実現した"家族の再会"です。

お坊さんだけど結婚した親鸞さん

親鸞は31歳の頃に恵信尼と結婚したとされ、子ももうけました。今の日本では結婚しているお坊さんは多くいらっしゃいますが、当時は今以上に僧侶の妻帯は禁じられていました。というのも仏教の戒律に、「男は女に触れてはならない」とあるため。僧侶が修業し自ら悟りを開く自力救済では、厳しいルールを守り通し、邪魔となる煩悩を避けるべきとされたからです。
しかし、親鸞が信じる教えは、阿弥陀如来によって全ての人が平等に救われるというものです。結婚している人も子どもがいる人も当然います。結婚して家庭を持ったら救われなくなるというのなら、"全ての人を救う"という教えに反します。だからこそ親鸞は公然と自ら結婚し、普通の人たちと同じ状況に身を置くことで自ら信じる教えを実践しようとしたのです。
前例のないことに親鸞は多方面から非難を受けましたが、信じる仏教の在り方を自ら証明する、信念を持った決断でした。妻の恵信尼はその想いの理解者であり、夫が流罪になっても常に寄り添い支え続けました。

息子との仲たがい、苦悩する父の姿

息子・善鸞は、親鸞の信任も厚い門徒でしたが、親鸞が84歳の時、方針の違いから勘当されてしまいます。関東で間違った教えを伝えている門人が現れたため、親鸞は善鸞を現地に行かせて事態収集を図ります。しかしその息子が自分の意図しない教えを説いたことがわかり、けじめのため止む無く親子の縁を切ったのです。
《善鸞義絶状》に書かれている言葉には「アサマシ」「カナシキ」「ココロウキ(心憂き)」とかなり感情的な表現が。晩年になって息子と袂を分かつことになってしまい、苦悩する父親としての親鸞の姿が垣間見えます。(なお現存しているのは親鸞の弟子が写したもののみで、親鸞直筆のものがないため実際のところはどういう流れでこうなったのかはまだ謎が多いようです)

「大谷廟堂」「本願寺」を作った末娘

末娘の覚信尼は、親鸞に最後まで寄り添いました。親鸞の晩年を看取った彼女は、東山大谷に廟堂を建て、そこに親鸞の木像を安置しました。これが大谷廟堂、現在の西本願寺と東本願寺のルーツとなります。

各論:親鸞さんの伝えたもの

shinran850_repo (14).jpg右:《親鸞聖人坐像》 鎌倉時代(13世紀) 千葉 常敬寺

続いて各論のエリアへ。1階の彫刻展示室では、親鸞や弟子たちの彫像(坐像)が迎えてくれます。親鸞像に関しては、特別に設けられたお堂風のスペースに置かれています。これは覚信尼が作った嘗ての大谷廟堂の様子の再現。大谷廟堂は"親鸞の墓所"ということから後継者争いの中心となったり、他の仏教宗派との争いの中で破却されたため、現在は当時の姿を見ることはできませんが、その様子を感じることができます。伝絵の往生の場面に描かれた大谷廟堂の姿と照らし合わせながら見ると、よりイメージがわいてきそうです。

親鸞さんと聖徳太子

shinran850_repo (15).jpg重要文化財《聖徳太子立像(孝養像)》 鎌倉時代(14世紀) 茨城 善重寺

親鸞にとって阿弥陀如来と同じく、大切に信仰していた存在が聖徳太子です。
親鸞は比叡山を降りた際、聖徳太子が建てたとされる六角堂に百日間籠りますが、そこで見た夢に聖徳太子本来の姿とされる救世観音が現れてお告げを与えられます。これに従ったところ、親鸞は師匠の法然と出会うことができました。他にも、諸所の場面で聖徳太子が登場する逸話が残っており、伝絵にも描かれています。
展示室では、親鸞が自ら作った聖徳太子を尊敬し讃える歌(和讃)や、浄土真宗の寺院に伝わる聖徳太子の像や絵が展示されています。

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特に中心に展示されている重要文化財《聖徳太子像(考養像)》(茨城・善重寺)は本来秘仏。特別に茨城のお寺から京都まで運ばれてきたそうです。鎌倉時代に作られた当時の色や模様がしっかり残っており、大変美しい木造です。360度全方向からじっくり眺めたい逸品。

親鸞さんのことば

各論のエリア最大の見どころが、親鸞自筆の著作や手紙等がならぶ「親鸞のことば」のコーナー。これでもか!と展示された文書の数々は圧巻です。企画担当の研究員・上杉智英さんも「気持ちが抑えきれずまとめて大量に置いてしまいました...」と仰るほど、とにかく豪華でボリュームたっぷりの展示内容です。

shinran850_repo (18).jpg手前:国宝《教行信証(坂東本)》親鸞筆 鎌倉時代(13世紀)京都 東本願寺〈冊替あり〉

特に、親鸞が自分の信仰をさまざまな経典や注釈書の文章を用いて自らまとめた、浄土真宗にとって最も大切な本といえる主著『教行信証』については、「坂東本」「高田本」「西本願寺本」の3点が同時に展示されています。
「坂東本」は唯一残る親鸞の自筆本で、そこかしこに墨で文字を塗りつぶしたり横に加筆したりと、推敲や書き直しの跡が見られます。実際に書いているときの本人の様子を感じられるのは自筆ならでは。ただ、この「坂東本」は傷みも多く災害のために欠けてしまった部分もあり、完全とはいえません。

shinran850_repo (19).jpg重要文化財《教行信証(高田本)》 真仏筆 鎌倉時代(13世紀) 三重 専修寺 〈冊替あり〉

そこを補ってくれるのが「高田本」。こちらは親鸞の生前に書き写されたもので、当時の親鸞の考えを余さず伝えてくれます。そして「西本願寺本」は親鸞の没後、読みやすく文章や全体の構成を整理して清書した、いわば完成版。多くの人が読むこと、つまり教えが広がっていったことを感じさせます。

この3点は別々の寺院の所蔵であり、この展覧会のような機会でなければ同時に見ることは叶いません。ぜひ見比べて鑑賞したい展示作品です。

また、手紙に関しては現存20点ほどのうち12点、半分以上を見ることができます。
親鸞の字は決して物凄く達筆ということはないのですが、一文字一文字がどれも比較的丁寧で読みやすいところから、彼の真面目できちんとした性格が伝わってくるようです。また、丁寧にフリガナがふられたものや漢字カナ交じりの手紙も有り、現代の人でもちょっと頑張ればけっこう読める点も印象深いところでした。

他にも、親鸞の語ったことをお弟子さんが書き残してまとめた名著『歎異抄』(重要文化財《歎異抄》 巻上 蓮如筆 京都 西本願寺 【展示期間:5/2~5/21】)など、貴重な書も見ることができます。有名な「善人なほもって往生とす、いはんや悪人をや(悪人正機)」の文も登場しますよ!

東西の本願寺の絵がそろい踏み。

親鸞の教えが全国に広まっていくと、浄土真宗は日本でもトップクラスに信徒の多い大きな宗派として力を持つようになります。そして各寺院には仏教関係以外の貴重な美術品も多く伝わりました。その中からピックアップした品も、展覧会では紹介されています。

shinran850_repo (21).jpg国宝《三十六人家集》 平安時代(12世紀) 京都 西本願寺〈帖替あり〉

国宝《三十六人家集》は、平安時代の能書家たちによる美しい文字と、贅を尽くした料紙のコラボレーションがたまらない一品。キラキラ輝く美しい紙に思わずうっとりしてしまいます。

shinran850_repo (20).jpg手前:《安養六種図》(部分) 望月玉泉筆 明治時代 明治28年(1895) 京都 東本願寺

また、桜を描いた大きな障壁画は、片方は東本願寺、もう片方は本願寺西山別院の所蔵。西山別院の絵は元は西本願寺で飾られていたものです。つまり、東西の本願寺を飾った障壁画を同じ空間で見ることができます!展覧会ならではの夢の共演です。

エピローグ:「人」を教えてくれるひと

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最後の部屋では、親鸞自らが書いた"南無阿弥陀仏"の「名号」と、親鸞の肖像画が一緒に展示されています。親鸞は「名号」は単なる名前ではなく、それ自体が阿弥陀如来の救いにそのものと説きます。親鸞が人生をかけて人に伝えようとしたもの、人生そのもののシンボルのようです。

仏教の教えに関する展覧会、ちょっと難しいように感じますが、親鸞という人にスポットをあてて見ていくと、悩んだり、苦しんだり、迷ったりして、そんな弱い自分を受け入れた上で仏さまや師匠など導く存在から道を見出し、学び続け自分がするべきことを考え続けている...そんな、ひとりの「ひと」の姿を感じられたような気がします。

850年の時を越えて、「人」と向き合い考え続けたひと、親鸞。この機会に出会いに行ってみてはいかがでしょうか?


親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞-生涯と名宝」(京都国立博物館/~5/21)

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