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【連載コラム】白沙村荘の庭から|第二十回「関雪コレクション」

2020/11/09

京都には大小さまざまなミュージアムがありますが、 中には嘗て作家自身が暮らした家や、現在も人が暮らす住居を公開している施設もあります。
「白沙村荘の庭から」は、そんなミュージアムのひとつ、白沙村荘 橋本関雪記念館の副館長・橋本眞次様に、ミュージアムの日々を徒然と綴っていただくコラムです。


橋本関雪の業績の中に、古美術品の蒐集があります。
これは、経済的なゆとりから生じるものではなく、彼生来の気性から来るいわば病にも似たもので、本人もそれを自覚していたようで文中で度々その事に触れていたり、古美術購入のためによね夫人と交わした金銭の借用書が残っていたりします。

一番若い頃のコレクションでは、江戸前期の画僧 月僊(1741-1809)の「秋景山水」が白沙村荘に遺されています。おそらくはこれが一番早い時期の蒐集であった物でしょう。そして金銭的なゆとりを持った大正期からは、海外への日本美術流失を防ぐ動きと、逆に中国からの美術品亡命が重なる形で、白沙村荘に一大コレクションが形成される事になりました。

日本の平安、鎌倉時代の仏像・石造美術品、室町から江戸期に至る書画。中国の漢・北魏・隋・唐・宋・元・明・清に至る俑や書画、拓本、陶器。インド・イランのミニアチュール。ペルシャの銀化ラスター彩、ギリシア・ローマの古陶器、中国の黒陶やアンダーソン土器、朝鮮の青磁、白磁。そして日本や大陸の古瓦と塼や、セザンヌ・ゴォガンなどの洋画など。
数百... 細かなものも含めると、数千点に近いコレクションが、昭和期の白沙村荘には集められていたのです。

晩年の陳列館(美術館)計画も、そのコレクションを収めることを主体にした物でしたが、関雪の急逝に伴いそれらのコレクションも一部は進駐軍に持ち去られ、また一部は文化庁(文化財準備室)へ白沙村荘にかかる税金の物納として徴収されたりして国宝であったものなどは一切が消えてしまいました。

今現在白沙村荘にあるコレクションは当時の全体からすると一部分と言えますが、それでも唯一無二を誇るコレクション群であることは何ら変わりありません。これらを絵筆の業績のみで集めた、橋本関雪の審美眼と努力に改めて頭が下がる思いです。

ついでと言っては何ですが、関雪の作品とそれに影響を及ぼしたであろうコレクションの比較を少しだけ。

如意輪観音像(推古時代)と「木蘭」(橋本関雪 /1918 第12回文展特選)

hakusasonso20-01.jpg【左】如意輪観音銅像 推古時代(存古楼清秘録 第一図)
【右】橋本関雪「木蘭」(左隻)1918

通常よく見る如意輪観音像は、立膝で首を傾げた姿勢のものが多いが、関雪がとても大事にしていたというこの仏像は、足を組み、首は真っ直ぐ俯く感じで作成されています。また、描かれた木蘭の眼も完全には閉じておらず、半眼として描かれていることから仏像から具体的なイメージを想起したのではないかと思われます。

「霊照女図」(孤月周林/室町時代)と「摘瓜図」(橋本関雪/1926)

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【左】孤月周林「霊照女図」室町時代
【右】橋本関雪「摘瓜図」1926 姫路市立美術館蔵

大正期の関雪が好んで描いた中国美人モチーフの作品。この作品と対比されるのは、雪舟の弟子筋にあたるとされる孤月周林(生没年不明)の「霊照女図」です。この作品は、禅学者であった龐居士の娘、霊照が竹籠を商う姿が禅のモチーフとして描かれています。共通するのは「竹籠を持つ女性」そして「髪飾りの形状」です。二人の雰囲気はかなり違うように描かれていますが、関雪はこれを実際に参考にしたと言われています。

「凍雲篩雪図」(浦上玉堂/江戸時代)と 「凍雲危桟」(橋本関雪/1916)

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【左】浦上玉堂「凍雲篩雪図」江戸時代
【右】橋本関雪「凍雲危桟」1916

これもまた大正期の関雪が好んで描いた雪景山水の作品。この作品は、浦上玉堂(1745~1820)の「凍雲篩月図」へのオマージュとして描かれました。関雪の父である橋本海関(1854~1936)は浦上玉堂の蒐集を関雪に先んじて行っており、関雪自身も「これは父の影響であろう」と大正15年に出版した「浦上玉堂」という書籍の中で触れています。 また、資料未確認ながらこの作品は元は橋本関雪のコレクションに入っていたとも言われ、現在は川端康成のコレクションとして国宝に指定をされています。並べてみると画中の岩が鏡写しになっていたり、真ん中の岩が繋がって見えたり... 実際に並べて掛ける前提であったかのようにピッタリと収まっています。

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