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【レポ】没後100年 富岡鉄斎(京都国立近代美術館)

2024/04/30

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景

昨年開館60周年を迎えた京都国立近代美術館の、2024年度最初の展覧会は「没後100年 富岡鉄斎」。明治・大正期に活躍した「最後の文人画家」富岡鉄斎の没後100年(正確には99年)を記念し、展示替えを挟み総数370点以上の作品で回顧する登場する大ボリュームの展覧会です。鉄斎は生まれも育ちも亡くなったのも京都の人なのですが、意外にも京都でまとまった形での展示機会は少なく、意外にも大規模な回顧展は27年ぶりの開催です。

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景
鉄斎の生前の姿を映したポートレート。いかにも文人然としたルックスにこだわりを感じます。
部屋に積み上げられた本の山にも注目!

京都の商家に生まれた富岡鉄斎は、商人の道徳を説く石門心学を中心に儒学・陽明学、国学・神道、仏教など幅広い学問を学ぶとともに、南宗画、やまと絵、江戸絵画などさまざまな流派の絵画も会得し、深い学識に基づいた画業を展開しました。明治の末には髙島屋で開催された展覧会をきっかけに近代の日本画家たちからも注目を集め、「日本のセザンヌ」と称えられるなど高い評価を受けています。
一方で幕末期は維新志士の支援活動を行ったり、明治になってからはその学識を活かして神社の宮司となって祭祀の復興に務めたり、天皇陵の管理を行ったりと画家以外の活動も積極的に行いました。

鉄斎の没後100年を経た現代も、鉄斎は近代の画家として高く評価されています。しかし、文人画自体を生活の中で目にする機会は少なくなったこともあり、名前は知られていてもその実像は知られていないというのが実情。そこでこの展覧会では、鉄斎の生涯を紹介するとともに、画家としてはもちろん、他の活動や趣味趣向や思想など、「どんな人だったか」、その実像を改めて紹介するものとなっています。
出展作品の総数は370点以上!京都会場だけでも4期の展示替え(1度の展示作品数は約150点)を予定。行くたびに違う内容が楽しめる大ボリュームです。

※この記事は、2024/4/1の内覧会時の取材内容を基にしています。観覧時期により展示作品などの内容が異なる媒位がございます。予めご了承ください。

「文人」という理想に生きたひと、富岡鉄斎に出会う。

絵も人も"まだら"であってしかるべき。
多彩な学びが生んだ鉄斎の画と書

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景

序章では「鉄斎の芸業 画と書」と題し、まず鉄斎の初期から晩年の手前までの作品、山水画や人物画、書などを紹介しています。

鉄斎の作品は特定の流派に拠らずさまざまな画風がミックスされ、同時に歴史や古典、地理などの多彩な学識や造詣に根差したリアルな描写が特徴とされます。
鉄斎は生家代々の教えだった「石門心学」が様々な思想や宗教・学問をミックスした折衷学問であったこともあり、鉄斎はジャンルを問わず様々なことを学び取り入れることを良しとしていたのです。これを意味する言葉が「まだら」。鉄斎は大正12年に建てた和洋折衷スタイルの自宅を「曼荼羅窟(まだらくつ)」と名付け、「人は全て一色ではいかぬ、いろいろなものが混ざって「まだら」になっているのが良い」と語っていたそうです。画一的でなく、多様であるべし。それが鉄斎の信条でした。

展示を担当した研究員の梶岡秀一先生曰く「鉄斎は晩年期が真骨頂と言われますが、若いころの作品がつまらないというわけではありません。若い頃には若い頃の良さがあります」とのこと。
若い頃の鉄斎の絵は少し繊細で丁寧な描写で、学んださまざまなことをきちんと絵という形に表そうとする姿勢がうかがえます。年月を重ねて知識や経験を増していくにつれできること、わかることが増え、鉄斎の筆はより自由で闊達なものとなっていったのでしょう。

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富岡鉄斎《山水図》慶應3年(1867)竹苞書楼 佐々木惣四郎
鉄斎32歳の時の作品。

また、昔は文人画家の絵は一種の縁起物として床の間などに飾られることが多かったので、一般の人にも身近な存在だったのだそう。それもあってか、鉄斎の作品は特に京都・大阪を中心に懇意にしていた店や個人の家にも多数伝わっており、普段は一般公開の機会がない個人蔵の品々も紹介されています。

親友で古書店(現在も本能寺のお向かいにある竹包樓書房さん)の店主だった佐々木惣四郎さんが所蔵していたという鉄斎の若描きの山水図は、展覧会に出される機会がなく写真でしか存在が知られていなかったものだそうです。
他にも、懇意にしていた薬屋さんのために描いた花の絵や、常連だった鳩居堂や虎屋といったお店に伝わる絵なども、展覧会では紹介されています。

文人とは多趣味であるべし。
趣味人・鉄斎の日常を垣間見る

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景

続く第1章「鉄斎の日常 多癖と交友」では、鉄斎の日常生活を伝える作品や、縁の品々が紹介されています。
鉄斎は「文人は多くの癖(趣味)を持つもの」、世の様々なことに興味を盛ってしかるべきと考えており、自身も多くの趣味を持っていました。本展ではそんな鉄斎遺愛の品々を用いて自室を再現展示するコーナーが設けられています。

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景
鉄斎愛用の煎茶道具。こちらは京都会場のみの展示です。

ここには鉄斎が絵画制作で用いた道具はもちろん、熱心に収集した硯や筆などの文具類や調度品、熱心に取り組んでいた煎茶の道具(京都会場限定展示)などが紹介されています。お気に入りの品に囲まれて書画に励む、鉄斎の日常が垣間見られます。

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景
壁いっぱいの展示ケースに並ぶのは全て印章!実際に捺印した際の印影もパネルで紹介されています。

また、鉄斎を語る上で欠かせないのが印章。鉄斎は「印癖」と言うほどに印章(はんこ)の収集に並々ならぬ情熱を注ぐ印章マニアでした。有名人の旧蔵品や、友人の陶芸家・4代清水六兵衛に作ってもらった印など、300点以上を所有していたそうです。今回はそのコレクションから120点を紹介。指先程度の小さなものから、巨大な文鎮や置物サイズまで、形も大きさも実に様々でバラエティに富んでいます。

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景
作品の隣に並ぶのが実際に使われた印章。

一部の印章は、それを使った作品と一緒に展示されているので、併せて見るとより楽しめます。「鉄斎は人から貰ったつもりで使っていたが実は借り物で鉄斎の没後に返された」など、印章にまつわるエピソードも解説で紹介されています。ものを通して、鉄斎の人となりも感じることができます。

確かな知識と旅が生み出す、鉄斎理想の山水画

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景

第2章は「鉄斎の旅 探勝と探求」では、鉄斎の生涯の基盤でもあった「旅」をテーマに作品が紹介されています。

鉄斎は、「万巻の書を読み、万里の路を行く」という言葉を座右の銘としていました。これは中国の画家・董其昌という人が文人画家の理想像として述べた言葉で、「絵を描く天賦の才がなくとも、多くの書を読みあらゆる学問をよく修め、あらゆるところを旅し己の人格を磨けば自ずと理想の山水が描ける」という教え。鉄斎はこれを深く信じ、人生をもってそれを成そうとしました。

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景
中右は楠木正成の妻が夫と息子の没後に河内の甘南村(今の大阪府富田林市)に隠棲した草庵を描いた《楠比庵図》。
熱心な勤王家で楠木正成を敬愛した鉄斎は、ゆかりの地をしばしば巡っていたそう。今でいう"聖地巡礼"に近いものを感じます。

そのため鉄斎は、北は北海道から南は鹿児島まで全国各地を旅をし、その土地に取材した絵を数多く制作しました。展示品にも、嵐山や東福寺の通天橋、鴨川、琵琶湖といった京都の周辺から、大分の耶馬渓などさまざまな場所を描いた作品が登場します。歴史上の出来事や人物と結び付けた作品も見られ、景色の美しさだけでなくその土地に纏わる逸話や文化・物語も絡めて描こうとする鉄斎の趣向も感じられます。

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富岡鉄斎《済勝余興図・漫遊所見図》明治4年(1871)清荒神清澄寺 鉄斎美術館
鉄斎が30代半ば、伊勢神宮(三重)から富山まで旅した際に訪れた各所の風景を描いたスケッチ。
各地で目にしたものその土地の人々の様子が活き活きと描かれています。

また、鉄斎が旅先の景色や風物、人々を描いたスケッチや調査記録、日記などの資料も多数紹介されています。どれも旅の空気や鉄斎の眼差しが感じられるものばかり。中には北海道で出会ったアイヌの人々の暮らしを記録した貴重なものも。鉄斎の関心の幅広さも伝わってきます。。

そして終章「鉄斎の到達点 老熟と清新」では、鉄斎の70~80歳代、晩年の作品が紹介されます。
最大の見どころは、やはり大作の山水画屏風の数々。年月を重ねさらに深みを増した鉄斎の山水画は、まるでその場に景色が広がっているかのような、ダイナミックでリアルな描写が魅力です。

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富岡鉄斎《富士山図》清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵【展示:第1~2期】

例えば《富士山図》(鉄斎美術館蔵、第1~2期)。右隻にはこれぞ富士山!と言った感じの、昔から好まれてきた美しい構図の富士山が描かれていますが、左隻にはゴツゴツした岩肌がむき出しの火口付近がクローズアップで描かれています。これは鉄斎が実際に富士山を登って目にした景色。遠くから見た富士山は美しいけれど、近くで見れば荒々しく険しい顔も持っている、イメージとリアルを対比させているかのよう。このような左右で全く違う景色を描いて対比させる画面構成が鉄斎の好みだったそうで、他の作品でも同じような描き方がしばしば見られます。
左隻の下の方には山を登っている人の姿が見られますが、これは池大雅ら江戸時代の有名な文人たち。讃には彼らが富士山や立山、白山と日本を代表する霊峰に登ったエピソードが添えられています。

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「没後100年 富岡鉄斎」(京都国立近代美術館)展示風景

ダイナミックな作品の一方で、ちょっと「ゆるい」作品も紹介されています。
《福内鬼外図》【第1~2期展示】は節分の豆まきの様子を描いていますが、女性に豆を投げられて逃げているのは漢字の「鬼」!ユーモラスな表情の鬼や、他にも魚屋さんの店先のような魚が並ぶ絵など、ユニークな作品も多数遺しています。鉄斎の表現の幅広さとともに、ユーモア精神あふれる人柄も感じられます。


文人にとって絵画は自らのあるべき姿の探求の一環として描くものであり、山水画は自分の胸の内にある理想を風景のかたちで描くもの。鉄斎は山水を想像することに拠らず、旅による見識と学問による確かな知識を持って描き出そうと務めました。それは鉄斎の「如何によく生きるか」に対する真摯な姿勢であり、作品や縁の品からは、そんな鉄斎の人生と向き合うまなざしがそこかしこから感じられるようでした。

展覧会は京都の後は2会場に巡回を予定。ただし京都会場が会場限定の展示品が非常に多い構成になっているため、他の会場とはそれぞれ展示内容が大幅に異なるとのこと。ぜひこの機会に足を運んでみてはいかがでしょうか。

開催は5/26まで。

没後100年 富岡鉄斎(京都国立近代美術館)

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