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京都ゆかりの作家

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竹内栖鳳とは(1)

(1864~1942)本名は恒吉。
明治中期から昭和初期にかけて約60年にわたり活躍した日本画家。
京都画壇近代化の推進者。
主宰した画塾竹杖会では、上村松園、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨、橋本関雪ら近代日本画に残る多くの逸材を育てました。「東の大観、西の栖鳳」とならび称せられ、1937年第一回文化勲章を大観と共に受章しています。

生家

竹内栖鳳は元治元年(1864)京都の御池通油小路西入ルにあった「亀政」という川魚料理店の長男として生まれました。蛤御門の変で京の町の大半が焼失した年です。店のあった場所は第二次大戦末期の道路拡張によって壊され、今は御池通の真ん中にあたります。

模索の時代

13歳で四条派の土田英林(つちだ・えいりん)に絵を習い始め、17歳の時、同派で京都画壇の中枢にいた幸野楳嶺(こうの・ばいれい)に入門します。凝り性の楳嶺が入門三日目には「鳳は梧桐に棲み竹実を喰う」という古語から棲鳳という雅号を授けたと言いますから、彼には素晴らしい素質があったのでしょう。
その後各種の展覧会で受賞を重ね、「楳嶺四天王」の筆頭と呼ばれました。
1884年の「猫児負喧」は京都博覧会受賞作となっています。
栖鳳の画は円山派、狩野派、景文などの諸派の画法を取り入れた折衷様式で描かれていることから「鵺(ぬえ)派」と批判する声もありました。しかしそれに対して栖鳳は、種々の試みを組み合わせた鵺派から入りそこから熟成していく方がよいと語ったそうです。

新しい日本画

1900年、栖鳳はパリ万国博覧会視察とヨーロッパ各国の美術事情視察のため農商務省、京都市より命じられて渡欧、7ヶ月間かけてフランス中心にイギリス、ドイツ、オーストリアなどを訪れます。
その際にかれはターナー、コローなどの影響を受けました。
帰国後には西洋画の画法も取り入れ、渡欧の経験と収穫を記念して雅号を「栖鳳」に改めました。

1901年、新古美術品展一等受賞の「獅子図」は淡い黄土(セピア)でライオンを描いたもので当時は「金獅子」と言われ大変評判となりました。
栖鳳は渡欧中にアントワープの動物園に三週間通い、ライオンを写生し獅子図の構想を練りました。残念ながら現在はこの作品は所在不明ですが、1902年頃に描かれた「大獅子図」があり、写生を基本とした円山四条派に西洋画の写生を取り込んだ、栖鳳ならではのリアルなライオンを見る事が出来ます。

栖鳳はあまりしゃべらないタイプだったそうですが、1909年京都市立絵画専門学校を設立させて自ら教授となり後進の指導をしました。その中で「写生」と「省筆」という表現方法を徹底させました。
1924年の「班猫」(まだらねこ)は重要文化財です。

栖鳳が晩年沼津に滞在していた際、八百屋の前を通りかかった時、荷車の上に寝ていたこの猫を見て「ははア...。徽宗皇帝の猫がいるぞ」と言ったそうです。
栖鳳が後日製作の経緯を「わたしの表現欲はむらむらと胸に湧いてきたのである。そして八百屋の主人から一枚の画と猫を交換して京都へ連れ帰り日夜座右に遊歩させて作品を作った」と語っています。この猫もセピア色が背景です。

生涯現役

1907年には栖鳳は新たに開設された文展の審査員となり、1913年「帝室技芸員」に推挙され名実ともに京都画壇の筆頭としての地位を確立しました。
1920年と翌年の中国旅行は、栖鳳の芸術により暖かい自然と人間の調和を与え、1924年フランス政府より勲章、1931年ハンガリー最高美術賞、1933年ドイツ政府よりゲーテ名誉賞を受け、日本を代表する画家となりました。

栖鳳は77歳で亡くなるまで作画三昧の日々を過ごしました。
晩年は神奈川県湯河原で過ごすことが多かったそうです。
墓地は京都市左京区黒谷の金戒光明寺東墓地。墓石には「栖鳳墓」とのみ彫られているということです。

文:虹のSIKA (編集:京都で遊ぼうART)

参考文献

日本の近代美術史5(青木茂/酒井忠康監修)
京都画壇散策(神崎憲一著 加藤類子編)
京都の美術史(赤井達郎著)



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