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神坂雪佳



神坂雪佳(かみさか・せっか)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した京都生まれの日本画家・図案家です。特に琳派に深く傾倒し、たらしこみなどの琳派独特の技法や構図を生かした作品を多数描いたことから、近代における琳派の継承者として位置づけられています。
また、工芸分野でも幅広く活躍し、日本における近代デザインの先駆者としても評価されています。2001年には日本人として初めてフランスのファッションブランド・エルメスの雑誌の表紙を飾ったことで話題となりました。



略歴

神坂雪佳は本名を吉隆といい、明治維新が成るわずか2年前、慶応2年(1866)に京都御所の警護役を務めていた武士の長男として生まれました。

明治14年(1881)、雪佳は絵師をめざし16歳で四条派の日本画家・鈴木瑞彦(すずき・ずいげん)に入門して日本画を学び始めます。しかし彼は通常の絵画ではなく、装飾芸術、図案の分野に関心をもつようになります。そして明治23年(1890)に東京へ向かい、当時日本を代表する図案家であった岸光景(きし・こうけい)に師事します。

明治29年(1896)、官営のデザイン事務所である京都市立工芸図案調整所が設立されると、雪佳はその主任となり、3年後には京都市技師として京都で本格的に活動を開始。雪佳が関わった分野は絵画のほか、染織や陶芸、漆芸、果ては建物の内装や室内装飾、庭園設計に及びます。その活動内容は画家というよりも今で言うデザイナーやプロデューサーに近いものがありました。

また、京都市立美術工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教師もつとめ、後進育成にも熱心に取り組み、京都の工芸界・図案界に大きな足跡を残しています。
晩年は嵯峨野に隠棲しながら創作活動を続け、昭和17年(1942)に77歳で没しました。



デザイナー・雪佳を産んだ出会い

雪佳が図案の世界に関心を持つようになったきっかけは、品川弥二郎(しながわ・やじろう)との出会いにあったといいます。品川は、高杉晋作や桂小五郎らと共に明治維新を成し遂げた、幕末の志士の一人です。

明治21年(1888)、雪佳は前年に欧州留学から帰国したばかりの品川と面識をもつ機会を得ます。そこで雪佳は、西洋の装飾芸術と、それにおける図案の大切さを聞かされます。開国して間もない日本にとって、工芸品は数少ない西洋との貿易品でした。海外にも通じる優れた工芸品を作るため、それを彩る図案は大変重要です。そのため、優れた図案の専門家の養成が明治政府にとっても急務となっていたのです。若い雪佳にとっても、ただ絵を描くだけではなく、スキルを生かして時代に即した新しいものを生み出せるということに、大いに刺激を受けたことでしょう。

そして2年後、雪佳は東京へ向かい、当時工芸界の指導的立場にあった岸光景のもとで本格的に工芸図案家への道を進むことになりました。



雪佳と琳派とアール・ヌーヴォー

雪佳が生きた時代は、開国によって西洋から新しい文化や表現が一気に日本に流入し、日本の芸術界も大いに影響を受けた時代でした。当時、日本からは数多くの画家たちが西洋の進んだ技術や文化を学びたいと海を渡っていました。

雪佳も例に漏れず、明治34年(1901)、35歳のときにイギリスのグラスゴーで行われたグラスゴー国際博覧会の視察調査のため、渡欧の機会を得ます。当時のヨーロッパは新しい美術工芸運動「アール・ヌーヴォー」が盛んだった時期でした。雪佳が渡欧する前の年には、フランス・パリで万国博覧会が開催され、多数の日本美術が出品された他、エミール・ガレやティファニー、ミュシャなどアール・ヌーヴォーの作家たちの作品が多数発表され「アール・ヌーヴォーの勝利」とも呼ばれるほどの盛り上がりを見せています。アール・ヌーヴォーの表現は日本にも強い影響を与え、逆輸入の形でアール・ヌーヴォー風の曲線表現などを取り入れた作品が日本でも多く作られました。

しかし、これに対して雪佳は大変辛らつな態度をとりました。
約半年のヨーロッパ滞在から帰国した後、雪佳は下記のような文言を美術雑誌に寄せています。

「最初より新美術(アール・ヌーヴォーのこと)の厭うべきに嘔吐を催す程なれど」
「今後も余は新美術を応用するの意志なし」(『図案』第2号「神坂雪佳氏の衣裳工芸談」)

つまり、アール・ヌーヴォーは吐き気を催すほど嫌なもので、自分は参考にするつもりもない、と言っているのです。雪佳は、西洋のものは素晴らしいと妄信してアール・ヌーヴォーををもてはやし、そのまま模倣してしまう風潮を強く批判しました。

元々アール・ヌーヴォーは西洋に大量にもたらされた日本美術に影響を受け、伝統に囚われない新しい美術工芸様式を求めて生まれたものでした。雪佳はそのことを現地で感じ、西洋に新しい美術を生み出すほどの力が日本の美術にはあるのだから、根底にある古典や琳派といった日本の美術をより深く学ぶことが、新しい美術・デザインを生み出すには不可欠だ、と考えたのです。

雪佳にとって、アール・ヌーヴォーとの出会いは琳派をはじめとした日本の美術・デザインの素晴らしさを改めて実感した出来事でした。


雪佳の仕事:琳派の継承者として

ヨーロッパから戻った後、雪佳は以前以上に琳派の研究に熱心に取り組むようになりました。

琳派の特徴は、大和絵と呼ばれる日本の伝統的な絵画をベースにした、デザイン性や装飾性豊かな表現にあります。雪佳は琳派の代表的な技法である「たらしこみ(絵具が乾く前に別の色の絵具をたらして滲ませる技法)」をはじめ、大胆なデフォルメやトリミング、クローズアップといった構図取りを学び、同時に西洋的な抽象表現やモダンな感覚も取り入れた、近代的な琳派の作風を目指しました。
伝統と革新を融合させた雪佳の作風は高い評価を受け、やがて"琳派の再来"とも呼ばれるようになります。

雪佳は作品制作だけでなく、自ら琳派に関する研究論文を執筆・発表したり、琳派の展覧会を主催したりと、琳派の普及活動も精力的に行いました。大正2年(1914)に発足した琳派の祖・本阿弥光悦の200回忌にあわせて発足した茶会「光悦会」には発起人として参加し、企画運営にも携わりました。この「光悦会」は日本を代表する茶会のひとつとして現在まで続いており、毎年11月に光悦の屋敷跡である鷹峯・光悦寺にて開催されています。

「四季草花図屏風」(細見美術館)


琳派の代表的モチーフである草花に正面から取り組んだ王道といえる作品。尾形光琳がかつて俵屋宗達に憧れて「風神雷神図」を描いたように、過去の琳派絵師たちの画業を受け継ごうとする雪佳の心情もうかがわせます。

「金魚玉図」(細見美術館)


細見美術館の琳派コレクションの中でも特に人気の作品。たらしこみなど琳派の技法を随所に駆使しつつ、ガラス鉢の中を泳ぐ金魚を真正面から描いたユニークな構図はとてもモダン。まさに近代の琳派たる雪佳の代表作です。

雪佳の仕事:理想の工芸とデザインを求めて

しかし、雪佳の真骨頂は工芸図案家、デザイナーとしての活動にあります。

雪佳は京都市立美術工芸学校で教鞭をとる傍ら、明治40年(1907)に美術工芸団体「佳美会」を結成します。この団体には染織、陶芸、漆芸などさまざまな分野の若手作家が参加しており、図案のデザインから制作、展示販売にいたるまでのプロセスを一貫して行うことができるようになっていました。いわば、一種の総合デザイン事務所です。そして、様々な分野の作家と協力して作品を作り出すという形は、かつて琳派の作家たちが行っていたことでした。雪佳は琳派の人々に倣って、理想の工芸品作りを追求すると同時に、京都の伝統である工芸の活性化や作家の育成も目指したのです。

この組織には職人である雪佳の弟たちも参加しており、実際に雪佳が考えたデザインを使った作品を制作・発表しています。

また、雪佳はヨーロッパからの帰国後すぐの明治35年(1902)、旅の間に得たアイディアを図案としてまとめた『海路』という図案集を出版しています。ここには波を思わせる抽象的なパターン文様がいくつも掲載されています。
ほかにも、モダンで可愛らしい蝶の模様を集めた『蝶千種』、より日本画的なテイストの『百々世草』といった図案集を、雪佳は次々と世に送り出しました。これらの本は画集であると同時に、一般の職人や工芸家へ向けたデザインカタログでもあり、実際に書き写したり拡大したり組み合わせたりして使ってもらうことを想定したものでした。
『海路』の前書において、雪佳は「織染の業其の他諸工芸の実地応用を目的とし、廣く参考に資するあらんと浴する所以なり」と、染織品だけでなく様々な工芸品にも応用して広く使って欲しい、という希望を記しています。

実用的な図案集は雪佳の他にも多くの作家が残していますが、その殆どは直筆で描かれたものなど数が少なく、あくまで身内向けの側面がありました。しかし雪佳の図案集はほとんどが一度に多数作れる木版刷で、最初から不特定多数の人に向けて作られたことが伺えます。

多くの人に新しい時代に相応しい優れた図案を届けたい、そしてよりよい工芸品を生み出して欲しい。そんなデザイナーとしての雪佳の思いが、図案集にはこめられています。


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