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長谷川等伯とは

日本一の絵師を夢見、秀吉・利休を魅了し、狩野永徳を恐れさせた男―――

長谷川等伯は、桃山時代に活躍した絵師。
豊臣秀吉、千利休らに重用され、当時画壇を我が物としていたトップ絵師集団・狩野派にたった一代で肩を並べ、脅かすまでの実力を得た人物です。
どんな画題も自由自在、精緻にも豪放にも描き分けたその実力はまさに天才でした。
また、その波乱万丈の生涯は人間味溢れるエピソードに彩られ、まるで大河ドラマのようです。

遅咲きの出発。能登の絵仏師、京都へ

時は群雄割拠の戦国時代。
長谷川等伯は戦国大名・畠山家の家臣であった奥村家の子として能登の国(現在の石川県)に生を受けました。幼い頃、染物業を営む長谷川家の養子となり、養父や養祖父から絵の手ほどきを受けます。
当初、彼は「信春(のぶはる)」と名乗り、自らも信徒だった日蓮宗関連の仏画を主に描いていました。

しかしその後戦乱の影響で仕事が減り、等伯は故郷で画業を続けることが困難になってしまいます。そしてついに1571年33歳の頃、新たな活動の場を求めて京都へと旅立つことになります。
当時は40歳が平均寿命だったとも言われる時代。30代での再出発はかなりリスクが大きいといわざるを得ません。それでも彼は、更なる大きな舞台・京都を目指したのです。

京都での初仕事『日堯上人像』

妻と息子を連れて京都へと上洛した等伯は日蓮宗の寺院・本法寺を頼りました。
というのも、彼の生家である奥村家の菩提寺・本延寺の本山が本法寺だったためです。

等伯は本法寺の塔頭のひとつに住み込んで制作活動を開始しました。その当時に描かれたのが『日堯上人像(にちぎょうしょうにんぞう)』でした。この絵はその署名によって「信春」が長谷川等伯と同一人物として確認された、能登時代と京都時代の等伯を繋ぐ重要な作品です。

描かれている日堯上人は、当時の本法寺の住職。丁度等伯が京都に上った翌年、30歳の若さで世を去っています。時期としても、等伯が上洛するのにも 色々と協力していたと考えられます。亡くなったばかりの住職の肖像画を誰にまかせるかは、お寺にとって非常に重要なこと。また当時肖像画を描くことはなに より名誉な仕事とされていたようです。
お寺から依頼されたのか、等伯自身が申し出たのかはわかりませんが、長谷川等伯にとって、恩人の肖像画を描くこと が、京都での初仕事となったのです。

この後、等伯は主に京都や大阪の商業都市・堺とを行ききしながら活動します。

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重要文化財『日堯上人像』
元亀3年(1572)/京都・本法寺蔵

本法寺の第八世日堯上人が説法している姿を描いた作品。相手の清らかな人格まで写し取ったかのような精緻な描写は、後に肖像画の名手としても名声を得る等伯の才能を感じさせます。










【POINT】本法寺

1436年創建・京都市上京区、小川通沿いにある日蓮宗の寺院。
長谷川等伯はこの寺の塔頭のひとつである、教行院に住んでいました。琳派の先駆・本阿弥光悦とも縁が深く、彼の設計した「巴の庭」もあります。すぐ近くには茶道家元である表千家・裏千家もあり、文化人と関係の深いお寺として知られています。

京都市上京区小川通寺ノ内上ル本法寺前町617番地
TEL: 075-441-7997
URL: http://eishouzan.honpouji.nichiren-shu.jp/



いざ、狩野派の牙城へ。絵筆一本の戦い

京都で一花咲かすことを夢見、上京した等伯。
しかし、京都での等伯の様子は、50代に入る頃まで殆ど分かっていません。

当時京都の画壇は狩野派という一つの絵師グループの牙城となっていました。
代々御用絵師として働いてきた狩野派は、言わば都会で専門教育を受けたエリート。
そして、当時の長はかの有名な狩野永徳でした。

皇室だけでなく、織田信長や豊臣秀吉からも信の厚い彼に率いられた狩野派は、まさに全盛期を迎えていました。即ち、狩野派に属さない人間が、人々に名を広く知られるような、城や御所での大仕事を得ることは非常に困難な状況だったのです。

地方から出てきた等伯にとって永徳はまさに間逆の存在。しかし、この余りに巨大な壁に対し、等伯は怯むどころか強烈なライバル意識を持ちます
絶対に、奴らを越えてやる―― 天下一の絵師の座を目指した、等伯の戦いが始まります

千利休との出会い

等伯にとって幸運だったのは、彼の周りには彼を支えてくれる理解者の存在があったことでした。

本法寺の第十世(住職)で、等伯と生涯にわたって交流を深めた日通上人が大坂・堺の出身であったこともあり、等伯は盛んに堺の商人たちと交流を持ちます。当時商業都市として大いに栄えていた堺には裕福で文化に理解のある商人達が数多くいました。

その中の一人が、茶道の大成者である千利休だったのです。

1589年、利休は等伯の力を見込んで、ある依頼をします。
それは、京都の名刹・大徳寺に利休が寄進する「金毛閣」の天井と柱の装飾画を描かせることでした。
大徳寺という絵師にとっての大きな桧舞台で、狩野派を押しのけて一介の絵師が絵を描いた。- このことは紛れもなく、京都に「長谷川等伯」という名が知れ渡る第一歩となったことでしょう。

【POINT】大徳寺

京都市北区・紫野にある臨済宗の大寺院。創建は鎌倉末期。あの"一休さん"こと一休宗純が住職を勤めたこともあります。

大仙院の枯山水の庭などが特に有名。武家に縁も深く、多くの有名武将の家の菩提寺も境内にあります。た、千利休が寄進し等伯が天井や柱の絵を描いたという三門「金毛閣」は、後に利休が秀吉の怒りを買い、切腹の原因になった場所でもあります。(通常は非公開)


〒603-8231 京都市北区紫野大徳寺町53
TEL:075-491-0019



一世一代の大博打「山水図襖」

同じ年、等伯はこの大徳寺でもうひとつの絵『山水図襖(さんすいずふすま)』を描いています。

この襖絵は大徳寺の塔頭のひとつ、三玄院の襖に描かれたものですが、これには等伯の意気込みをうかがわせる物語が伝えられています。

等伯はかねてから三玄院の住職春屋宗園に襖絵を描きたいと願っていました
しかし住職は「ここは修行の場だから絵はいらない」と取り付く島も無し。それでも諦め切れない等伯は、ある日住職が留守の間に院を訪ね、何と勝手に上がりこんでそのまま襖に絵を描きだしてしまったのです。他の僧侶達が思わぬ事態に慌てふためく中、等伯は一気に絵を完成させてしまいました。その後帰ってきた住職は当然激怒。しかし、彼は等伯が残していった絵の素晴らしい出来栄えに関心したのか、結局そのままこの絵を院に残したのでした。

一歩間違えればその後の等伯も無かったかもしれない、まさに一世一代の大博打。等伯の決して諦めない、その性格と気合が伝わってきます。この行動が吉と出たことで、その後等伯は南禅寺や妙心寺といった大寺院での大仕事の機会を得るようになっていきました。

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重要文化財『山水図襖』
天正17年(1589)京都・高台寺圓徳院蔵

等伯が京都の画壇に地盤を築き始めたころの作品。水墨で樹木の描写やしっとりとした空気の描写には、代表作・国宝『松林図屏風』にも通じるものが感じられます。雲母刷り胡粉桐文様の唐紙と本当に襖用で絵を描くには向かない紙に描かれているところ、エピ ソードの信憑性を高めています。






【POINT】等伯の見立てのセンス
この絵は雪景色を描いたもので、等伯は水分を弾いて浮かび上がる桐紋を、降りしきる雪に見立てていたと考えられます。等伯の見立てのセンスも感じられる作品と言えるでしょう。(因みに現在は三玄院ではなく、高台寺圓徳院と樂美術館に分けて所蔵されています)


好敵手・狩野永徳との対決、極めた頂点、そして...

好敵手・狩野永徳との対決

千利休のバックアップもあり、京都でも大きな仕事を手がけるようになっていった長谷川等伯は、順調に京都の有名絵師の仲間入りを果たします。
しかし、それまで長い間画壇のトップに君臨し、武家や名刹、宮中の貴族にも密接な関わりをもち、代々数多くの障壁画を任されていた狩野永徳をはじめとする 狩野派の面々がよく思うはずもありませんでした。突然現れ て自分達が今まで任されていた仕事をかすめ取っていった等伯は狩野一族のプライドを傷つける許しがたい存在となったのです。

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重要文化財『千利休像 春屋宗園賛』
(文禄4年/1595)京都・表千家不審菴蔵

等伯の才能を認め、京都デビューの後押しをした千利休。彼との出会いは等伯の人生にとって非常に大きなものでした。

 そんな利休の肖像画の代表とされるこの作品は、利休の没後4年を経て描かれたもの。生前の利休に相対して写した表情のスケッチを元に描いたもののようで、 非常にリアリティのある描写がされています。直接利休と交流を持ち、彼がどんな人物なのか分かっていた等伯だからこそ描けた肖像画、とも言えるかもしれません。

絵の上部に記された賛文は、等伯が勝手に上がりこんで襖絵を描いてしまった三玄院の住職・春屋宗園によるもの。彼は等伯とも利休とも面識があったそうで、三人の交流も伺わせます。






長谷川等伯と狩野永徳が直接対決したのは、天正18年(1590)のことでした。等伯のもとに、京都御所で仕事をする機会が訪れたのです。 それは、当時豊臣秀吉が造営していた後陽成天皇御所の対屋(たいのや/天皇の奥方の住まい)を飾る障壁画の制作でした。 それまで秀吉の重臣である京都奉行・前田玄以などの有力者に掛け合い続け、必死で後ろ盾を求めていた等伯にとって、苦労が報われた瞬間です。 一介の地方絵師が天下一の舞台に己の作品を描ける...まさに下克上。等伯の喜びようは想像に難くありません。
しかし、ここで動いたのが狩野永徳でした。 狩野派の誇りともいえる宮中の仕事を等伯に奪われては、面子は丸つぶれ。 これでは一族の地位も危ない―そこで永徳は息子や弟と共に、親しくしていた有力公家に土産を持って馳せ参じ、「長谷川とかいう奴を外してくれ!」と訴えに出たのです。
長い間一族ぐるみで有力者と付き合いのある永徳とあくまで新参者の等伯。 こう出てこられては等伯に勝ち目はありません。 結果、永徳の目論見は成功。 等伯への依頼は取り消しとなり仕事は狩野派が請け負うことに。 等伯の天下一の絵師への夢は、あと一歩のところで目の前から逃げてしまったのでした。

一見すると、永徳のやり方は大人気ない気もします。しかしこんな手を使わなければならないほど、等伯の存在は永徳にとって非常に大きなものになっていたのでしょう。
「長谷川等伯をここで放っておいたら、狩野派がいずれやられてしまう」
そう天下の狩野派の長・永徳に危機感を抱かせるほど、等伯たち長谷川一門は実力が伯仲しつつあった。 この事件はそれを感じさせます。
一族の将来への危惧、等伯という存在への恐れ。 永徳にとってそれはどれほどの心労となったのでしょうか。
そしてこの出来事から一月後、永徳は突然この世を去ってしまうのです。

【POINT】京都御所

等伯と永徳の因縁の場所となった、京都御所。等伯が一度は仕事を任されかけたのは、同じ敷地・京都御苑の中にある後陽成天皇御所・現在の仙洞御所です。残念ながら今は舞台となった建物はなく、庭園だけが残されています。
見学は無料ですが、事前に往復はがきか直接京都御苑にある宮内庁京都事務所の窓口、またはホームページからでお申し込みを。
宮内庁参観案内ホームページ


夢にまで見た晴れ舞台・鎮魂の障壁画「楓図」

一度は後一歩のところで夢に届かなかった等伯に再びチャンスが訪れます

永徳の急死によって狩野派は長が居なくなった為に混乱、一時的に力を弱めます。
そして丁度その頃、秀吉の子・鶴松が幼くして亡くなりました。 御歳たったの3歳。長く子供に恵まれなかった秀吉にとって、待ちに待った跡取り息子の死の悲しみは計り知れません。

そこで秀吉は息子の弔いのために、京都に壮大な菩提寺・祥雲寺(現・智積院)の建立を命じます。そこの障壁画を等伯に任せたのです。

愛する我が子を失った人の悲しみを癒し、天下人の目にかなう素晴らしい作品を描かなければ――

そうして等伯が生み出したのが、国宝『楓図』でした。
中心には力強く左右に枝を広げる巨大な楓。それを彩るように緑や赤の鮮やかな楓の葉や美しい秋の草花達がふんだんに描かれています。
傍らには成長した等伯の息子・久蔵による『桜図』が並び、こちらも見事な枝振りの八重桜が画面いっぱいを花で埋め尽くしています。

豪華絢爛でありながら、まるで木や草花が幼くしてこの世を去ってしまった鶴松を優しく包み込むようなこの絵に、秀吉は大いに満足しました。 天下人の威信をかけた大事業、等伯は見事にその期待に応えてみせたのです。

かくして、等伯は天下に名だたる絵師として、絶大な勢力と栄華を極めることになったのです。 まさに「天下一の絵師」を目指した等伯の夢が叶った瞬間でした。

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国宝『楓図』
(文禄元年/1592)京都・智積院

天正19年(1591)、3歳で夭折した豊臣秀吉の長男・鶴松の菩提を弔うために建立された祥雲寺(現・智積院)に描かれた障壁画。巨大な木が画面から飛び出しそうな迫力で描かれるこの描写はライバル・狩野永徳が創り上げた「大図様式」を意識させます。 しかし周囲の草花などの自然描写は非常に繊細で可憐、等伯らしさが現れています。 ライバルを認めつつ、そこに自分のオリジナリティを加えるところがまた面白い魅力となっています。

頂点とひきかえに

しかし、等伯に待っていたのは、皮肉にも秀吉と同じ「息子の死」でした。
自分の後継として将来を期待していた久蔵は、『桜図』を描きあげた2年後、26歳の若さでこの世を去ってしまったのです。

その3年後、秀吉も亡くなります。
利休も既にこの世にはなく、等伯は自分を認めてくれた人物を失ってしまったのです。
そして、最大のライバルの永徳ももういません。
絵師の頂点にたった等伯ですが、彼はまるでその引き換えのように数多くのものを失ってしまったのでした。

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【POINT】智積院

等伯と久蔵や弟子達長谷川一門が大仕事を行った智積院。京都国立博物館からもすぐ近く、東大路を北へ少し上ったところにあります。 ここでは『楓図』と共に描かれた、等伯の息子・久蔵の『桜図』を見ることができます。展覧会で父・等伯の『楓図』を見たら、是非、こちらも併せてご覧になっては如何でしょうか?

智積院についてはこちら!


鎮魂と祈りと、夢の果て

息子への思いが生んだ鎮魂の画『松林図屏風』

絵師として、「長谷川等伯」の名は天下に知れ渡りました。
しかし、その代償は余りに大きなものでした。何より、息子・久蔵を失ったことはどれだけの悲しみを等伯にもたらしたことでしょう。
自分の『楓図』と共に『桜図』を見事に描きあげた久蔵は、父に勝るとも劣らない才気に溢れていました。頼もしい息子の様子に、これなら次の代も安泰だ、と等伯は将来を楽しみにしていたに違いありません。

そんな愛息を失った、やりきれない思い。その強い思いが生んだ名品とも言われるのがあの国宝『松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)』です。

この絵は記録が残されていないため、描かれた正確な年代もわからず、また紙の継ぎ目のズレや印が後で押されたものと見られることなどから、 完成作ではなく下絵なのではないかとも指摘する研究者もおり、なにかと謎も多い作品となっています。

霧か朝靄の立ち込める空間に、うっすらと浮かび上がり消えていく松林。墨の濃淡と筆致だけで描かれているというのに、 無限の広がり、しっとりとした空気の肌触りさえ感じさせ、自分がまるで本当に画面の中に入っている様な錯覚を覚えてしまいます。

墨の濃淡と余白の美を極限まで追求したこの絵は、どこか近寄り難い危うさとそれでいて離れ難い吸引力を併せ持っています。恐らく等伯は、家族を失ったことへの消え去ることのない悲しみを、 絵という形に変えることで、癒そうとしたのでしょう。どこまでも広がる哀しいほど美しい松林の姿には、等伯の声なき慟哭が封じ込められているかのようです。

等伯の故郷・能登半島の浜辺には、この絵とよく似た風景が広がっています。
海からの風に耐えながら浜辺に立つ松林。 次々と家族や恩人を亡くした等伯の眼によぎったのは、もう戻らない覚悟で離れた、故郷の姿だったのかもしれません。

しかしそれも確かなことではありません。その分、この絵は観る人によって記憶の中のどのような景色にも受け取れ、 ぬくもりや孤独、切なさや美しさなど、様々な感情を自由に呼び起こす、独特の奥深さを持っています。
それこそが、この作品が時を越えて多くの人を魅了し続けている所以なのでしょう。

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国宝『松林図屏風』(16世紀/東京国立博物館蔵)上:左隻/下:右隻

日本でもっとも有名な国宝のひとつともいえる、等伯の代表的作品。 手前は黒々とした濃い墨で荒々しく、逆に背後は淡墨で柔らかく描かれた松は、リアルな奥行き・遠近感を感じさせ、当時の他の作品とは一線を画す画期的なものとなっています。 また、その絶妙な配置と余白のバランスとも相まって、延々と続く空間の広がり、霧の感触まで表現しています。 まさに『描かずにあらわす』という魔法のような表現は、日本の水墨画の最高峰とも評されています。

一族への祈り『仏涅槃図』

絵師である等伯にとって、自分を支え、自分の思いをぶつけられる場所はやはり絵の世界でした。

等伯は、久蔵の死の七回忌の年、その思いを昇華するかのように、弟子たち一門をあげて、一枚の大涅槃図を描き上げます

元々仏画を描いていた経験のある等伯、涅槃図はそれまでにも手掛けたことのある画題だったのでしょうが、この絵には格別の思いで取り組んだに違いありません。

鮮やかな描き表装(通常布で作る表装部分も絵として描いている)を含めれば縦10m、横6mにもなるその大きさは、等伯の思いの強さがそのまま形になったようで、観る者を圧倒します。
大画面の中で釈迦の死を嘆き悲しむ弟子や動物たちの姿は、親しい人たちを亡くした等伯自身の姿、哀悼の思いを投影したものなのかもしれません。

この絵の裏面には、等伯が篤く信仰した法華教の祖・日蓮聖人をはじめとした僧侶たちの名前や、本法寺の祖・日親上人以下の歴代の本法寺住職、等伯の祖父母や養父母、 そして久蔵ら家族の供養名が記されています。篤い仏への信仰と共に、先立った一族の菩提を弔う、鎮魂の祈り。等伯がこの絵に込めた思いが、書き連ねられた名前には凝縮されています。

重要文化財『仏涅槃図』(慶長4年/1599/京都・本法寺蔵)


仏涅槃図

東福寺、大徳寺のものと並び京都の三大涅槃図に数えられる等伯最大の作品。

あまりの大きさのため、全体の様子がなかなかわかりません。
完成の後は一度宮中で披露された後に、上洛以来何かとお世話になってきた本法寺に寄進されました。

釈迦(ブッダ)の入滅と、その死を嘆く弟子や動物たちが集まっている様子が、画面いっぱいに鮮やかな色合いと等伯らしい力強くも繊細な線で表情豊かに描か れています。

この絵には弟子や釈迦の家族などの人々の他に、獅子、象、虎、駱駝(らくだ)など様々な動物の姿が描かれていますが、特に面白いのは当時非常に珍しかった舶来の洋犬が描きこまれていること。
等伯はどこかでこの犬に出会っていたのでしょうか?




【POINT】涅槃会(ねはんえ)

釈迦の命日・陰暦2月15日の前後に開催される、釈迦の威徳を偲ぶ仏教行事。
江戸時代の書物などによると、本法寺の涅槃会にはこの等伯の『仏涅槃図』目当てに京都の人々がこぞって拝みに出かけたといい、当時から非常に有名な作品だったようです。
現在も本法寺の「涅槃会」は毎年3月15日~4月15日まで開催されており、 その際この『仏涅槃図』
も一般公開されています。(拝観料:500円/ 京都市バス「堀川寺之内」下車)



夢の果て、新天地・江戸への旅

豊臣秀吉の死後、天下は代わって徳川家康のものとなろうとしていました。

秀吉にパトロンとなってもらっていた等伯にとって、 長谷川一門の将来を考えるとそれは不安要素のひとつとなっていたのかもしれません。等伯自身も慶長9年、66歳の時に絵の制作中に高いところから落ちたことが原因で右手を痛めてしまっていました。一派のためにも、新しいパトロン探しは急務でした。

そこで等伯が決心したのは、新天地・江戸へ向かうことでした。
現在のように交通手段も発達しておらず、既に70歳を越えていた高齢の等伯には無茶にも等しい決断。よほどの覚悟を決めていたのでしょう。

そして慶長15年(1610)、等伯は次男の宋宅(そうたく)と共に長谷川一門の命運をかけて江戸へと旅立ちます。 しかしやはり無理がたたったのでしょう、等伯は旅の途中で病に侵され、何とか江戸に辿りついたものの、その2日目に亡くなりました。
享年72歳。 しかし、その生涯は最後まで、希望を捨てず、諦めない、京都に天下を夢見てやってきたときの思いが貫かれていたのかもしれません。

等伯の死後、等伯に並び立つ、その後継者にふさわしいほどの力を持った人物は、残念ながら弟子の中にはいなかったようです。 狩野派も永徳の子・光信らによって再び力を盛り返し、それに押されるように長谷川派は力を失っていくことになりました。

しかし、等伯の息子や弟子たちによるものとされる作品は、京都をはじめとした各地に残されています。狩野派の作品にも長谷川派の影響が見られる作品が存在しており、江戸時代には長谷川派の絵師が狩野派と共に障壁画の仕事に参加したという記録も残っているといいます。

また、現在も京都で絵に携わる仕事を続けている子孫もいるそう。
長谷川等伯の魂は、彼の残した数々の名品と共に、今も確かに息づいています。


【代表作品】

重要文化財『三十番神図』(1566)/富山県(高岡市)・大法寺蔵
重要文化財『日堯上人像』(1572)/京都・本法寺蔵
重要文化財 大徳寺山門天井画・柱絵(1589)/京都・大徳寺蔵
重要文化財 旧三玄院襖絵(山水図襖)(1589)/京都・高台寺園徳院蔵
国宝 旧祥雲寺障壁画(楓図・他)(1592頃)/京都・智積院蔵
重要文化財『利休居士像』(1595)/京都・不審庵蔵
重要文化財『枯木猿猴図』(16世紀)/京都・妙心寺 龍泉庵(京都国立博物館 委託)
国宝『松林図屏風』(16世紀)/東京国立博物館蔵
重要文化財『仏涅槃図』(1599)/京都・本法寺蔵


関連リンク

没後400年 特別展覧会「長谷川等伯」(京都国立博物館)



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