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六波羅蜜寺

六波羅蜜寺とは

東大路を少し西へ入ったところにある、清水寺近辺の賑わいが嘘のような、静かな住宅街。
この場所「六波羅(ろくはら)」は、平安から鎌倉時代にかけ日本の歴史の中心となっていたところでした。
そこに佇むのが、六波羅蜜寺。現在も多くの人の信仰を集めているこのお寺では、日本の歴史のエッセンスを伝える、教科書でもお馴染みの宝物に出会うことができます。

通りに面した「鉄門」から本堂を臨む。普段はこの門は閉まっているのですが、取材時に特別に開けて頂きました。ありがとうございます!


「六波羅」の名の由来

「六波羅」(ろくはら)―ちょっと日本の地名とは思えないようなこの地名。
ちょうど鴨川を挟んで東側、北は建仁寺近くから五条通までの地域のことを指します。
六波羅蜜寺の周辺地域ということで、お寺の名前にちなんで名付けられたといわれます。

かつてこの鴨川の東側の地域は、京都の葬儀場とされた「鳥辺野(とりべの)」への入口にあたることから、「彼岸(あの世)と此岸(この世)の境となる場所」とされてきました。
そのためか、この近辺は六波羅蜜寺をはじめお寺が幾つも立ち並び、古くから信仰の地となっています。六波羅のほか、「六原」と記されている場合もあります。

六波羅蜜寺のすぐ近く、松原通(旧五条通)と大和大路の交差点。六波羅蜜寺を示す「西国三十三ヶ所第十七番札所」の碑(左)と共に、「六道の辻」の碑(右)が立てられています。
ここはかつて鳥辺野の葬儀場へ通じる入口とされ、まさに「あの世とこの世の境目」となっていました。
左奥の洋風の建物は、六波羅蜜寺に隣接する旧六原小学校。鎌倉時代に「六波羅探題」が置かれた跡地にあたります。


六波羅蜜寺の歴史

空也上人と六波羅蜜寺


六波羅蜜寺は、醍醐天皇の第二皇子であり、「念仏の祖」としても知られる空也上人によって建てられました。
天暦5(951)年。当時京都では疫病が流行っていたため、空也上人はそれを退散させようと自ら十一面観音を彫り、この仏像を曳き車に乗せ、京都の街中を回りました。その際、青竹を蓮華の花びらのように八つに薄く割ったものを茶筅(ちゃせん)代わりにお茶を立て、仏様に献じ、それを病気で苦しむ人々に身分の差なく授け、歓喜踊躍(かんきゆやく ※1)しつつ念仏を唱えて回り、多くの人を救ったのだそうです。このお茶は中に小さな梅干と結んだ昆布を入れたもので、現在も無病息災の「皇福茶(おうぶくちゃ)」として正月三が日に参拝者に振舞われています。
現在残されている空也上人の祈願文によると、その後応和3(963)年、600巻の大般若経の写経を完成させ、鴨川の東岸の付近に十一面観音像を本尊として西光寺というお寺を創建。600人の僧侶達と共に、経を読み上げ、夜には五つの大文字型の灯りをを灯した萬燈会(まんとうえ ※2)を行うなど、盛大な供養会を執り行ったそうです。その後空也上人が亡くなると、弟子である中信という人によって規模が拡大し、977年に「六波羅蜜寺」と改められ、天台宗の別院として栄えました。
「六波羅蜜」とは、仏教の言葉で悟りを開くために必要な六つの修行― 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧のことを指します。

※1 歓喜踊躍(または踊躍歓喜とも)
仏教の言葉で、おどり上がって大いに喜ぶこと。信仰を得た際の喜びの表現とされる。

※2 萬燈会も毎年8月8日より3日間の日程で現在も年中行事として行われています。本と堂の中で大文字型の灯りを5組灯して精霊迎え(六道参り)が行われます。迎えられた精霊は、16日に行われる大文字の送り火の際に送られます。

歴史の中心地となった六波羅蜜寺


平安時代の終わりごろ。
平忠盛が、六波羅蜜寺の敷地内に平家一門の拠点として「六波羅館」を置いたことをきっかけに、六波羅蜜寺の敷地やその近辺には平家の人々の館が立ち並ぶことになります。その数は何と最盛期には5200軒余にものぼったとか。
元々平家は伊勢(三重県)を拠点にしていたこともあり、ちょうどそこからの街道も近かったため、六波羅の地を選んだといわれます。

その後、平清盛の代になり平家が日本の政治の実権を握ると、清盛は京都の街中に別に館を建てて拠点を移します。
しかし平家の軍事力の拠点はそのまま六波羅が中心となっており、多くの人々がここで暮らしていました。
その後保元・平治の乱(1156、1159年)を経て、平家は源氏との争いに敗れて没落してしまいます。そして寿永二(1183)年には兵火に襲われ、六波羅蜜寺の諸堂は本堂だけを残して焼失してしまいました。

平家が去った後、六波羅は勝った源頼朝のものとなります。
頼朝は義父(妻・政子の父)である北条時政に京都守護の職を与え、その庁舎を六波羅に築きました。その後承久の乱が起こると京都守護は鎌倉幕府の出先機関「六波羅探題」と改められ、北条氏の者が京都の警備・監視役として駐留するようになりました。
その後、鎌倉幕府が足利尊氏らによって倒される際にはここが京都の拠点であるとして攻められ、再び兵火に見舞われることになります。
まさに六波羅蜜寺は、時代の移り変わりを示す中心的な場所となっていたのです。

その後六波羅蜜寺は何度も火災に遭いつつもその度に修復されました。
豊臣秀吉も京都の大仏を建立した際、一緒に建てた方広寺の余材を利用して六波羅蜜寺の本堂の補修を行っています。
また、江戸幕府が開かれた後も、徳川家の代々の将軍も朱印を与え、お寺を保護しています。
当時の六波羅蜜寺は境内に大伽藍を連ね、多くの人々が訪れる大寺院となっていました。

しかし明治維新の際、他の寺院と同様、廃仏毀釈(仏教職の特権の廃止策がエスカレートし、寺院や仏像破壊が行われた)の影響を受け、領地は一気に減少。現在のような規模となりました。
(ちなみに現在は嵯峨・鳥居本にある愛宕念仏寺(あごうねんぶつじ)は、元は塔頭のひとつとして六波羅蜜寺の敷地内にあったお寺です)

そして時は流れ、第二次世界大戦の後。
昭和44年(1969)、開創1000年を記念した本堂の解体修理が行われ、創建当時の極彩色の色合いが復元されました。鮮やかな朱色の柱や壁などは、当時の絢爛豪華な姿を今に伝えています。

<つづく>

六波羅蜜寺の境内。本堂の朱色が鮮やかでよく映えます。手前の仏像は、空也上人が荷車に乗せて京都市中をまわった「十一面観音像」を模したもの(本物はご本尊で秘仏)
奥の建物にもいくつか仏像などが安置されています。

境内にある塚。左は平清盛を祀ったもので、六波羅の地が平家の本拠地だったことを偲ばせます。
右は歌舞伎の演目にもなっている「阿古屋」の塚。「阿古屋」とは、平家の残党狩りをしようとする源氏方の代官が、平家の武士を恋人にもつ遊女・阿古屋を捕らえ、尋問します。しかし彼女は一切答えず、弾かされた筝(こと)の音にも乱れが全く無かったため、結局釈放されたという物語です。ここにも、六波羅と平家のつながりが感じられます。
どちらの塚も、鎌倉時代に造られたものです。ちなみに、阿古屋塚の台座になっているのは


六波羅蜜寺

六波羅蜜寺

所在地

〒605-0813
京都市東山区五条通大和大路上ル東
http://www.rokuhara.or.jp/

時間

【拝観】8:00~17:00
【宝物館】8:30~17:00(受付は16:30まで)

休館

無休

お問い合わせ

電話番号: 075-561-6980(代)※受付時間:8:30~16:30

■料金

大人:600円
大学生・高校生・中学生:500円
小学生:400円
※30名以上で団体割引(50円引き)

※行事期間の場合は変更となる場合がございます。

■交通のご案内

【京都市バス】
206系統にて「清水道」下車、徒歩7分

【京阪電車】
「清水五条」駅下車、徒歩7分

【阪急電車】
「河原町」駅下車、徒歩15分

※ 駐車場はございません。公共交通機関を御利用下さい。


協力:京博連



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