京都ゆかりの作家

上村松園 一覧に戻る

上村 松園とは

本名は上村 津禰(つね)(常子(つねこ)とも)。
京都に生まれ育ち、女性の目を通して主に「美人画」を描き続けた日本画家です。
女性画家として当時もっとも先進的な活躍を見せ、亡くなる前年には女性初の文化勲章を受章しました。
同じく日本画家である上村松篁(しょうこう)は息子、上村淳之(あつし)は孫にあたります。


1875年(明治8年)4月23日、京都の繁華街、四条御幸町近くにあった葉茶屋(茶葉や抹茶を売る店)「ちきり屋」の次女として生まれる。
1887年(明治20年)に、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学。四条派の大家として名高かった鈴木松年(すずきしょうねん)に師事。
第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品し、一等褒状を受賞。「四季美人図」は、来日中であったヴィクトリア女王の三男・コンノート公アーサーが購入し、当時大変な話題となる。
その3年後に同じ趣向で描いた作品がシカゴ万博に出品され、破格の2等を受賞。
(当時の審査員にはあのアーネスト・フェノロサもいた)
1893年(明治26年)、 幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事。2年後、楳嶺の死去にともない、兄弟子に当たる竹内栖鳳に師事した。
1948年(昭和23年)、女性としては初めて文化勲章を受章する。
1949年(昭和24年)8月27日死去。享年74。


身近だった「京都」の伝統

松園の生まれた場所は、京都市下京区四条御幸町。
そこにあった葉茶屋(茶葉や抹茶を売る店)「ちきり屋」の次女として生を受けました。
花街・祇園も程近く、祇園祭の際には鉾も立ち並ぶような繁華街の商家の娘。当然、周囲には京都の伝統文化が溢れていました。

彼女は明治・大正・昭和を通して、
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」
「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」

これを常に意識して女性の姿を描き続けました。
そのまなざしは、画中の人物の心情に寄り添うかのようなあたたかさと、人物の心の奥底に渦巻く情念を静かに描き出す冷静さを併せ持っています。
この彼女の理想とした女性像には、伝統文化の中で生き、気品と凛とした強さを同時に併せ持つ、京都の女性の姿が影響していたことは想像に難くありません。

そして、その女性像には、母の姿も少なからず重なってきます。


母・仲子への思い

松園の父は、彼女が生まれる前に既にこの世にの人ではありませんでした。
そのため、松園の母・仲子は女手一つで店を切り盛りし、松園と彼女の姉、二人の娘を育て上げました。松園にとって、母は母親であると同時に父親代わりの存在でもあったのです。

幼い頃から松園は絵を描くことが大好きな少女だったようです。
彼女の回想録『青眉抄』には店先で母に半紙をもらって絵を描いて遊んでいた、といったことが書かれています。
また、近所には浮世絵を売る古道具屋も、役者絵が掲げられた芝居小屋もありました。彼女は母に連れられて店を覗いては、ねだって絵や本を買ってもらっていたそうです。

そして小学校を卒業する頃。彼女は本格的に絵を描きたいと、京都府画学校(現在の京都市立芸大の前身)に入学します。
しかし明治時代、女性が画家を志すことはまだ世間では認められていませんでした。今では女性アーティストは数多く活躍していますが、当時の画壇は男の世界だったのです。
「女が絵を描くなんて」と非難の目を向ける親戚も大勢いました。
しかし、母は彼女の絵への強い思いを理解し、娘の望んだ道だもの、と松園の背中を押したのです。

松園は初めて展覧会に出品した作品がいきなり最高の評価を受け、英国皇子に買い上げられるという華々しいデビューを飾ります。しかしその分周囲からの嫉妬を買い、陰湿な嫌がらせを受けることもありました。
時には展覧会に展示してある作品を汚されたこともあったといいます。
また、松園は画壇デビューの2年後に未婚の状態で長男・信太郎(後の松篁)を出産します。今でいえばシングルマザーとなったのですが、その苦労は現在以上のものがあったろうことは想像に難く有りません。
この状況にあっても、松園が苦難を乗り越えることが出来たのは、やはり母の存在のお陰でした。
母は、忙しい松園に代わって子育てを手伝うなど、献身的に彼女の画業をサポートし続けました。

松園は母を亡くした後に、「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」など母を追慕する格調高い作品を生み出しました。

松園は『青眉抄』で、このように母のことを回想しています。

「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのでした。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのです」



情念の作品「花がたみ」と「焔(ほのお)」

松園といえば、華やかかつ繊細で、気品あふれる作品が多いといわれます。
しかし、その点において「花がたみ」と「焔」の2枚は、特異な作品となっています。

「花がたみ」(1915年(大正4年))は、謡曲「花筐(はながたみ)」を題材にした作品です。
継体天皇の皇子時代に寵を受けた「照日の前」が形見の花筐を手に都に上り、紅葉狩りに行き逢った帝の前で舞う―という内容。
松園はこの絵を描く際、能面「十寸髪(ますがみ)」を狂女の顔の参考にしたといいます。
美しくも、どこを見ているのかわからない、うつろな視線の女性の姿が、どこか哀愁を漂わせています。

そして、「焰(ほのお)」(1918年(大正7年))。この
題材は謡曲「葵上」。『源氏物語』に登場する六条御息所の生霊(※1)を、桃山時代の女性の姿で描いたものです。松園自身も「数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」と話しています。
振り返りながら後れ毛を噛む、女。着物には、藤の花と蜘蛛の巣が描かれています。
189×90cmという大作は、美しさと同時になんともおどろおどろしい、女の情念が見事に描き出されています。
この「焰」は、松園自身も長年思い続けた男性に捨てられるなど、精神的に辛い時期に描かれたものだったといいます。本人も「どうしてこのような凄絶な絵を描いたのかわからない」というほどだったといいますから、我を忘れるほど、全身全霊を込めて描いた作品だったのでしょう。
この絵を描いた後、松園は3年間、まったく展覧会に自分の作品を出品しませんでした。
しかしこれがかえって、彼女の評価をより一層高めることになったのです。
それまで、「美しいが、個性や感情が感じられない」「京人形のようだ」などと、松園の作品を批判する批評家も一部にいました。しかし、この作品を見れば、決して彼女が「ただの美人画描き」の枠に留まらないことは、一目瞭然でしょう。
この絵が転機となり、松園は既存の評価の枠を打ち破ったのです。

※1 六条御息所は光源氏の正妻、葵の上への屈辱と嫉妬から生霊になり、葵の上にとり憑き呪い殺してしまう。


【代表作品】

「四季美人図」1890(明治23年)
「焰」1918年(大正7年)
重要文化財 「序の舞」1936年(昭和11年)


【著書】

「松園美人画譜」1909年(明治42年))
「青眉抄」1943年(昭和18年)

関連リンク


上村松園展(京都展:2010年11月2日~/京都国立近代美術館)
京遊ART×白沙村荘橋本関雪記念館・連載コラム「白沙村荘の庭から」第7回
  (同時期に京都画壇で活動した橋本関雪とのつながりについて。竹内栖鳳の門下時代の松園の様子が垣間見えます)

松伯美術館(松園、松篁、淳之の三代の作品を展示する美術館)


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