1. 京都で遊ぼうART
  2. スタッフブログ
  3. 「京遊こぼれ話」アーカイブ

京都で遊ぼうART スタッフブログ

京都地域の美術館・博物館の情報サイト「京都で遊ぼう ART」のスタッフによるブログです。

RSSで最新情報をお届け

「京遊こぼれ話」アーカイブ

flyer_hamburg-ukiyoe.jpg先日5月21日(土)から相国寺承天閣美術館で始まった 日独交流150周年記念「ハンブルク浮世絵コレクション展」

鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重...と、有名&人気浮世絵師の傑作がずらりとドイツ・ハンブルクから里帰りするというとっても豪華な内容の展覧会です。いや、本当すごい。

しかし、展覧会会期中の見所はそれだけではないんです!

実は展覧会の会期に合わせて、期間限定で貴重な作品が公開されることになっています。
今回公開されるのは
横山華山筆「祇園祭礼図巻」と、伊藤若冲の拓版画「玄圃瑤華」&その版木です。
しかし、作品名をぱっと聞いただけではイマイチイメージが浮かびませんよね。
いったいどんな作品なのか?少しご紹介します!

横山華山筆「祇園祭礼図巻」

公開期間:2011年7月2日(土)~18日(月・祝)

京都の夏祭りといえば、祇園祭。
その期間に合わせて公開されるこの作品は、江戸後期の祇園祭の様子を描いた作品です。
現在も見ることができる祇園祭の山や鉾の姿のほか、当時の人々がお祭りを楽しむ様子も生き生きと描かれています。
実は祇園祭の山・鉾の一部は、この絵が描かれた後、蛤御門の変などで京都の街が火災に遭った際に焼失してしまい、今は巡行していないものもあります。まだ健在だった頃の姿を、絵巻でぜひ確認してみてください。

※ 横山華山(1781(1784)~1837)
江戸後期の絵師。京都生まれ。岸派の岸駒(がんく)や四条派の松村月渓に学んだ。曽我蕭白にも私淑している。
人物画、風景画、花鳥画に優れる。主に海外の美術館・コレクションに所蔵品が多い。
京都をテーマにした作品には、京都の風景をパノラマで描いた「花洛一覧」など。


特別公開 伊藤若冲の拓版画「玄圃瑤華」と板木

公開期間:2011年8月13日(土)~21日(日)

genpoyoka.jpg 2genpoyoka.jpg

相国寺ゆかりの人でもある伊藤若冲。
承天閣美術館では、最近修復が完了した若冲筆の障壁画(金閣寺大書院で使われていたもの)の全面公開を行うなど、話題となっていました。→ 若冲水墨画の世界

今回は、彼の代表作のひとつである「玄圃瑤華」(げんぽようか)が特別公開されます。
若冲が好んだモチーフ、草花や虫たち、カエルなどの生き物が生き生きとデザインされた版画作品。
葉っぱの虫くいやつるのうねり具合など、全体が上手に一体化され、とてもモダンな作品になっています。
若冲といえばものすごい書き込み具合や極彩色のカラフルな作品のイメージが強いかもしれませんが、こちらはモノクロームかつディフォルメもされていて、とてもかわいらしいですよ!
はがきなどにも復刻デザインされたものが京都では売られていたりするので、見覚えのある方もいらっしゃるかも?
(ちなみに、江戸琳派の代表的な画家である酒井抱一もこの絵をお手本にした作品を描いています)
また、今回は作品と一緒に、版木を所蔵する日本でも数少ない木版印刷の会社「芸艸堂」(うんそうどう)さんが、実際に用いる版木も公開してくれます!

日々何かしらの催しが開催されている京都。
その京都の5月を代表する行事といえば、葵祭!平安時代からずっと行われている、大変歴史あるお祭りです。平安時代の貴族文化や、日本の美も堪能できるこのお祭りに、スタッフが当日行って参りました。その様子をご紹介します!
今年行かれた方も、行けなかった方も、ご一読ください。


葵祭とは?

正式名は「賀茂祭」。
7月の祇園祭、10月の時代祭にならぶ「京都三大祭」の一つです。葵祭は、葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名です。

京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭であり、石清水八幡宮の南祭に対し、「北祭」とも言います。平安時代、「祭」といえば、葵祭のことを指していたらしいです。

(参照元:wikipedia「葵祭」

今年は日曜日に開催!行列のコースは見物客で溢れていました

到着したのは、11時を少しまわった頃。場所は出町柳駅近くの「出町橋」。

久しぶりの日曜日開催に、橋の上はすでに見物客で溢れかえっていました。
河原町通付近はすでに見物客出入りの規制がかかっており、入ることはできない程でした。さすが、週末。

待つこと、10分程。行列が出町橋に姿を現しました。

先頭は、本列から。

葵祭_01 葵祭_02 葵祭_04 葵祭_05
葵祭_03

さて、前半の本列での主役になるのが黒い着物を着た勅使(ちょくし)です。
実は葵祭って、この列は主役らしいですね。お恥ずかしいことに、私は今回初めて知りました。

元々は天皇が京の両鴨社に、願い事を書いた文書を代理の高官を立てて持って行き、天下国家の安泰を祈ったことが葵祭の始まりだそうです。
さらに、源氏物語・葵の巻では、光源氏がこの勅使として行列に参加したというエピソードがあります。

本列はこれで終了。 続くは、有名な斎王代列。
見学している人の中には、この斎王代列がお目当てだった方もといらっしゃいました。

葵祭_06 葵祭_08 葵祭_09 葵祭_10 葵祭_11 葵祭_12 葵祭_13 葵祭_14
葵祭_07

斎王代(さいおうだい)。葵祭でももっとも有名な役どころです。
今年の斎王代(第56代斎王代)に選ばれたのは、同志社大政策学部の金井志帆さん。
お母様も第23代斎王代を務めた経験があり、親子2代で選ばれたのは前回に続き4組目だそうです。
遠目ではありますが、なんとか横顔だけは拝見できました。

私の目の前を通り過ぎると、すぐそこには午前の部のゴール・下鴨神社。
午後は、ここから上賀茂神社を目指すことになります。

当日は夏日と言っていいほどの暑さ。
行列の役者として参加した方も、見学した方も、お疲れ様でした。
そして、私はあの十二単がどれだけ暑いのか、とても気になりました。


そういえば、2011年は京都三大祭すべて週末に来る、絶好の観光YEAR!

5月の葵祭が終わり、もうじき7月の祇園祭。そして、10月の時代祭がやってきます。 しかも、今年はどの三大祭も本番は週末に行われるという、見学するには絶好の曜日合わせ。大変な混雑となり、見学するのも一苦労かと思います。
でも、せっかくの週末合わせの三大祭です。まだ行った方ことが無い方は、これを機会に是非足を運んでみてはいかがでしょうか。


祇園祭の詳細はこちらから。
祇園祭 GION-MATSURI 〜京都の街中がミュージアム!〜

flyer_shinran2.jpg5月8日で盛況のうちに終了した「法然展」。ご覧になられましたか?
京都市美術館の「親鸞展」はまだ29日まで開催されていますので、ぜひこちらもチェックして見てください!
さて、前回は法然さんの人となりをご紹介しましたが、今回は弟子にあたる親鸞さんをご紹介してみようと思います。予習復習にどうぞ!

Who is SHINRAN?(「親鸞」ってどんな人?)


親鸞聖人(1173~1263)は、法然上人とは一世代後に活躍した僧侶です。
法然上人をご紹介した際にもありましたが、当時は飢饉や戦が続き、また貴族から武士へと政治の実験も映りつつある、激動の時代でした。

親鸞の故郷は現在の京都市伏見区日野にある法界寺・日野誕生院というお寺の付近といわれています。父は皇室に仕える侍従、母は源氏の血を引く武士の娘といわれています。
しかし4歳で父が、8歳で母が亡くなってしまい、身寄りの無くなった親鸞は、わずか9歳で出家して仏門に入ることになりました。(出家を行ったのは、現在の知恩院の塔頭のひとつ・青蓮院といわれています)

出家した後、親鸞は比叡山の僧として、20年もの間厳しい修行に励むことになります。
当時の比叡山は「立派な僧侶になるならここ!」といわれる名門。しかし当時の仏教は、法然上人をご紹介した際にも述べたとおり、貴族や権力者など一部の人のものとなっていました。
比叡山も貴族の支援を得るために高額の加持祈祷の依頼に頼ったり、お経本来の意味を勉強するのではなく、細々した文字の意味や解釈を考えているような状態になっていました。
いくら一生懸命修行しても、救いも感じられず、悟りにも程遠い...山での修行に限界を感じた親鸞は、とうとう山を降りてしまいます。

sinran750_eden.jpg 重要文化財「本願寺聖人伝絵(康永本)」得度剃髪の場面(京都・東本願寺蔵)


聖徳太子の導きと師匠・法然との出会い

shinran750_gyogyosinsyo.jpg「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」(坂東本)親鸞筆 6冊
(鎌倉時代/13世紀/京都・東本願寺蔵)

山を降りた親鸞は、聖徳太子が建立したといわれる京都・烏丸の六角堂にこもって、ご本尊の如意輪観音に自分はどうしたらよいかと祈り続けました。
すると95日後、夢枕に聖徳太子が現れて、「あなたの迷いを晴らすのは「願主浄土(ただ仏を信じて浄土に行くことを願うこと)」の道だけです」と告げます。

ちょうどその頃、京都でこの教えを説いている人物が話題になっていました。それが、法然上人だったのです。あの人のところに行けば、答えが見つかる!そう信じた親鸞は、東山・吉水に住んでいた法然の庵を毎日のように訪ねるようになります。
法然はとても清貧で、ひたすら理想の仏教を追求している人でした。そして、彼の教えに触れ、ついに親鸞は自分の目指す仏教の姿に出会い、本心から救われたのでした。
この時のことは、後年に親鸞本人が
建仁元年辛酉の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』)」と書いています。

また、後に弟子が親鸞の話を書き留めた『歎異抄(たんにしょう)』にはこう語られています。

「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に うまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべきや業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」
(親鸞は、ただ念仏に励み阿弥陀仏に助けて頂こうという、よき人(法然上人)のお言葉 を信じているだけで、そのほかに特別のわけなどありません。 念仏が地獄におちる道だと、脅してくる人もいるとそうですが、念仏が本当に浄土に通じる道か、それとも地獄におちる道か、私(親鸞)は一切知りません。
しかし例え法然上人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしても、決して後悔はいたしません)

間違っているかどうかはわからないが、私が信じる道はこれだ!ということでしょう。
すっかり迷いが晴れた親鸞聖人の心情が伝わってきます。

shinran750_tannisyo.jpg 重要文化財「歎異抄(たんにしょう)」蓮如(れんにょ)筆 2巻
(室町時代/15世紀/京都・西本願寺蔵)

苦難の日々と、自分自身の道へ
しかし親鸞の心の救いとは裏腹に、法然一門はその後苦難に見舞われてしまいます。
法然の教えが広まり多くの人々が集まるにつれ、反対する人々は危機感を抱き、圧力は日増しに強くなりました。そしてとうとう、1207年に念仏停止(念仏修行の禁止)の命令がされ、法然は讃岐へ、親鸞は越後(新潟)へ追放されてしまいます。当時親鸞は35歳。せっかくこの先の道が開けたというのに、無理やり僧侶を辞めさせられ(還俗)、師匠とも離れ離れ。不満でいっぱいだったろうことは、想像に堅くありません。

shinran750_zazou.jpg「親鸞聖人坐像(しんらんしょうにんざぞう)」
(南北朝時代/14世紀中期/三重・専修寺蔵)
しかし素朴な田舎暮らしをしているうちに親鸞の心境も変わっていきます。確かに不運ではあったけれど、決して悪いことではないのだ、とポジティブに考えるようになってきたのです。
一方では悪いことも、見方に寄っては必ずしもそうとは限らない。
これは、後の親鸞の教えに大きく影響を与えることになりました。

その後赦され、1211年の冬には法然に京都に戻る許可が出ました。師匠に会いたい!と当然、親鸞も願ったのですが、雪が深すぎてなかなか京都へ赴くことはできませんでした。
そして翌年、法然は京都で亡くなってしまいます。師匠にはもう会えない、と知った親鸞は、そのまま越後に留まることにし、その後約20年間、関東で布教活動を行うことになりました。
当然、関東にも反対派の人々がいます。朝廷や鎌倉幕府からも念仏禁止令が出され、度々妨害を受けるなど簡単にはいきませんでした。しかしその教えは着実に広まり、教えを信じる人も増えていったのです。

62,3歳のとき、ついに親鸞は故郷、京都へ戻ってきました。
理由は関東でも動きづらくなったためだとか、諸説ありはっきりしていません。
京都に戻ってからの生活も楽ではなかったようで、関東時代に知り合った人たちからの援助で生活していたといいます。京都では親鸞は執筆活動に励み、後世の人々のために自分の教えを文章としてまとめることに尽力しました。現在残されている親鸞の著書はほぼこの頃に書かれたものです。

そして1262年、親鸞聖人は90歳で亡くなりました。当時から考えると本当に長生き、大往生です!
彼は東山五条、大谷に葬られましたが、現在もここには「大谷霊廟」があり、多くの人々が訪れています。
親鸞の死から10年後、末娘の覚信尼たちによって法然と親鸞が出会った吉水の地にはお堂が作られました。これが後にお寺として整備されたのが、本願寺です。(現在の本願寺は、後に移設され東西に分けられたものです)

法然と親鸞ってどう違う?


さて、法然と親鸞ですが、この二人はどう違うのか、疑問に思っている方も多いのではないでしょうか。
元々二人は師匠と弟子の関係ですし、根本の部分ではさほど大きな差はないようです。
阿弥陀如来におすがりし、極楽浄土へ導いてもらうこと、そのためには念仏が大事」という考えは二人とも共通しています。
むしろ、親鸞は師匠の法然の教えをより深く分析し、掘り下げていったと考えたほうがよいかもしれません。実際、親鸞は自分の著書のなかで師匠の残した文章を引用して解説や考察をしているところがあるそうです。現在二人の宗派は分かれて存在していますが、けして考えが違って分かれたというわけではなく(むしろ親鸞は法然の教えを受け継いだ、といった心境だったのかもしれません)、その後の歴史の流れによるところが大きいようです。

一般的に、法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗の一番の違いは、以下のところを指摘されています。

法然は「修行には色々あるが、念仏が一番なので、とにかくひたすら念仏に励み、この道を究めなさい」と念仏を唱える修行をすることに重きをおいています。
対して親鸞は「そもそも阿弥陀様は「全ての人を救う」ことを使命(本願)とされているのだから、修行の量云々は関係がない。自分でどうこうするのではなく阿弥陀様のお力(他力)を信じていなさい」という信心そのものの方に重点がいっています。

shinran750_eshinni.jpg 「恵信尼絵像」(江戸時代・17世紀/京都・龍谷大学蔵)
親鸞の妻・恵信尼の姿を描いた数少ない作品。彼女には不明な点も多いのですが、彼女の残したまとまった書状類により親鸞の人となりが現在まで伝えられています。親鸞は彼女と京都で結婚し、越後にも二人で向かったといわれます。
親鸞の有名な言葉に「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや (悪人正機)」(『歎異抄』より)というものがあります。
「きちんと修行ができるような善い人は自分の力で極楽にいけるだろう。でも阿弥陀様はそれもできない人=悪人を、その力で何とか助けようと思っているんじゃないのか?」

親鸞は、実際に結婚もし、子供も持ち、肉や魚も口にしています。これはお坊さんには禁止されていたことでしたので、当時はあちこちから批難轟々だったといいます。
しかし、これはお坊さん以外では人の営みとして普通のことです。これが悪いことなら、お坊さん以外の人皆悪い人といえてしまうでしょう。でも阿弥陀様はどんな人も救うと誓っている。そんな阿弥陀様を信じているのだからこそ、親鸞は自らタブーを破ってその考えを実践してみせたのです。

ある意味とてもロックな生き方をしている人といえるのかもしれません。

展覧会には、親鸞の過去や家庭での様子を奥さんが娘に書き送った手紙などが展示されています。
親鸞の人となりや考えを知ってから見ると、よりいっそう親しみを持って展示品を見ることができるかもしれません。

関連リンク

親鸞聖人七百五十回忌 真宗教団連合四十周年記念 「親鸞展 生涯とゆかりの名宝」
京都市美術館




  • 京都で遊ぼう総合TOP
  • 京都で遊ぼうART
  • 京都で遊ぼうMUSIC
  • 京都で遊ぼうSTAY
  • 京都の銭湯
  • 京遊本舗