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【特集】今年の京都はお寺がアツい?「法然展」&「親鸞展」(3)Who is "SHINRAN"?編

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flyer_shinran2.jpg5月8日で盛況のうちに終了した「法然展」。ご覧になられましたか?
京都市美術館の「親鸞展」はまだ29日まで開催されていますので、ぜひこちらもチェックして見てください!
さて、前回は法然さんの人となりをご紹介しましたが、今回は弟子にあたる親鸞さんをご紹介してみようと思います。予習復習にどうぞ!

Who is SHINRAN?(「親鸞」ってどんな人?)


親鸞聖人(1173~1263)は、法然上人とは一世代後に活躍した僧侶です。
法然上人をご紹介した際にもありましたが、当時は飢饉や戦が続き、また貴族から武士へと政治の実験も映りつつある、激動の時代でした。

親鸞の故郷は現在の京都市伏見区日野にある法界寺・日野誕生院というお寺の付近といわれています。父は皇室に仕える侍従、母は源氏の血を引く武士の娘といわれています。
しかし4歳で父が、8歳で母が亡くなってしまい、身寄りの無くなった親鸞は、わずか9歳で出家して仏門に入ることになりました。(出家を行ったのは、現在の知恩院の塔頭のひとつ・青蓮院といわれています)

出家した後、親鸞は比叡山の僧として、20年もの間厳しい修行に励むことになります。
当時の比叡山は「立派な僧侶になるならここ!」といわれる名門。しかし当時の仏教は、法然上人をご紹介した際にも述べたとおり、貴族や権力者など一部の人のものとなっていました。
比叡山も貴族の支援を得るために高額の加持祈祷の依頼に頼ったり、お経本来の意味を勉強するのではなく、細々した文字の意味や解釈を考えているような状態になっていました。
いくら一生懸命修行しても、救いも感じられず、悟りにも程遠い...山での修行に限界を感じた親鸞は、とうとう山を降りてしまいます。

sinran750_eden.jpg 重要文化財「本願寺聖人伝絵(康永本)」得度剃髪の場面(京都・東本願寺蔵)


聖徳太子の導きと師匠・法然との出会い

shinran750_gyogyosinsyo.jpg「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」(坂東本)親鸞筆 6冊
(鎌倉時代/13世紀/京都・東本願寺蔵)

山を降りた親鸞は、聖徳太子が建立したといわれる京都・烏丸の六角堂にこもって、ご本尊の如意輪観音に自分はどうしたらよいかと祈り続けました。
すると95日後、夢枕に聖徳太子が現れて、「あなたの迷いを晴らすのは「願主浄土(ただ仏を信じて浄土に行くことを願うこと)」の道だけです」と告げます。

ちょうどその頃、京都でこの教えを説いている人物が話題になっていました。それが、法然上人だったのです。あの人のところに行けば、答えが見つかる!そう信じた親鸞は、東山・吉水に住んでいた法然の庵を毎日のように訪ねるようになります。
法然はとても清貧で、ひたすら理想の仏教を追求している人でした。そして、彼の教えに触れ、ついに親鸞は自分の目指す仏教の姿に出会い、本心から救われたのでした。
この時のことは、後年に親鸞本人が
建仁元年辛酉の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』)」と書いています。

また、後に弟子が親鸞の話を書き留めた『歎異抄(たんにしょう)』にはこう語られています。

「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に うまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべきや業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」
(親鸞は、ただ念仏に励み阿弥陀仏に助けて頂こうという、よき人(法然上人)のお言葉 を信じているだけで、そのほかに特別のわけなどありません。 念仏が地獄におちる道だと、脅してくる人もいるとそうですが、念仏が本当に浄土に通じる道か、それとも地獄におちる道か、私(親鸞)は一切知りません。
しかし例え法然上人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしても、決して後悔はいたしません)

間違っているかどうかはわからないが、私が信じる道はこれだ!ということでしょう。
すっかり迷いが晴れた親鸞聖人の心情が伝わってきます。

shinran750_tannisyo.jpg 重要文化財「歎異抄(たんにしょう)」蓮如(れんにょ)筆 2巻
(室町時代/15世紀/京都・西本願寺蔵)

苦難の日々と、自分自身の道へ
しかし親鸞の心の救いとは裏腹に、法然一門はその後苦難に見舞われてしまいます。
法然の教えが広まり多くの人々が集まるにつれ、反対する人々は危機感を抱き、圧力は日増しに強くなりました。そしてとうとう、1207年に念仏停止(念仏修行の禁止)の命令がされ、法然は讃岐へ、親鸞は越後(新潟)へ追放されてしまいます。当時親鸞は35歳。せっかくこの先の道が開けたというのに、無理やり僧侶を辞めさせられ(還俗)、師匠とも離れ離れ。不満でいっぱいだったろうことは、想像に堅くありません。

shinran750_zazou.jpg「親鸞聖人坐像(しんらんしょうにんざぞう)」
(南北朝時代/14世紀中期/三重・専修寺蔵)
しかし素朴な田舎暮らしをしているうちに親鸞の心境も変わっていきます。確かに不運ではあったけれど、決して悪いことではないのだ、とポジティブに考えるようになってきたのです。
一方では悪いことも、見方に寄っては必ずしもそうとは限らない。
これは、後の親鸞の教えに大きく影響を与えることになりました。

その後赦され、1211年の冬には法然に京都に戻る許可が出ました。師匠に会いたい!と当然、親鸞も願ったのですが、雪が深すぎてなかなか京都へ赴くことはできませんでした。
そして翌年、法然は京都で亡くなってしまいます。師匠にはもう会えない、と知った親鸞は、そのまま越後に留まることにし、その後約20年間、関東で布教活動を行うことになりました。
当然、関東にも反対派の人々がいます。朝廷や鎌倉幕府からも念仏禁止令が出され、度々妨害を受けるなど簡単にはいきませんでした。しかしその教えは着実に広まり、教えを信じる人も増えていったのです。

62,3歳のとき、ついに親鸞は故郷、京都へ戻ってきました。
理由は関東でも動きづらくなったためだとか、諸説ありはっきりしていません。
京都に戻ってからの生活も楽ではなかったようで、関東時代に知り合った人たちからの援助で生活していたといいます。京都では親鸞は執筆活動に励み、後世の人々のために自分の教えを文章としてまとめることに尽力しました。現在残されている親鸞の著書はほぼこの頃に書かれたものです。

そして1262年、親鸞聖人は90歳で亡くなりました。当時から考えると本当に長生き、大往生です!
彼は東山五条、大谷に葬られましたが、現在もここには「大谷霊廟」があり、多くの人々が訪れています。
親鸞の死から10年後、末娘の覚信尼たちによって法然と親鸞が出会った吉水の地にはお堂が作られました。これが後にお寺として整備されたのが、本願寺です。(現在の本願寺は、後に移設され東西に分けられたものです)

法然と親鸞ってどう違う?


さて、法然と親鸞ですが、この二人はどう違うのか、疑問に思っている方も多いのではないでしょうか。
元々二人は師匠と弟子の関係ですし、根本の部分ではさほど大きな差はないようです。
阿弥陀如来におすがりし、極楽浄土へ導いてもらうこと、そのためには念仏が大事」という考えは二人とも共通しています。
むしろ、親鸞は師匠の法然の教えをより深く分析し、掘り下げていったと考えたほうがよいかもしれません。実際、親鸞は自分の著書のなかで師匠の残した文章を引用して解説や考察をしているところがあるそうです。現在二人の宗派は分かれて存在していますが、けして考えが違って分かれたというわけではなく(むしろ親鸞は法然の教えを受け継いだ、といった心境だったのかもしれません)、その後の歴史の流れによるところが大きいようです。

一般的に、法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗の一番の違いは、以下のところを指摘されています。

法然は「修行には色々あるが、念仏が一番なので、とにかくひたすら念仏に励み、この道を究めなさい」と念仏を唱える修行をすることに重きをおいています。
対して親鸞は「そもそも阿弥陀様は「全ての人を救う」ことを使命(本願)とされているのだから、修行の量云々は関係がない。自分でどうこうするのではなく阿弥陀様のお力(他力)を信じていなさい」という信心そのものの方に重点がいっています。

shinran750_eshinni.jpg 「恵信尼絵像」(江戸時代・17世紀/京都・龍谷大学蔵)
親鸞の妻・恵信尼の姿を描いた数少ない作品。彼女には不明な点も多いのですが、彼女の残したまとまった書状類により親鸞の人となりが現在まで伝えられています。親鸞は彼女と京都で結婚し、越後にも二人で向かったといわれます。
親鸞の有名な言葉に「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや (悪人正機)」(『歎異抄』より)というものがあります。
「きちんと修行ができるような善い人は自分の力で極楽にいけるだろう。でも阿弥陀様はそれもできない人=悪人を、その力で何とか助けようと思っているんじゃないのか?」

親鸞は、実際に結婚もし、子供も持ち、肉や魚も口にしています。これはお坊さんには禁止されていたことでしたので、当時はあちこちから批難轟々だったといいます。
しかし、これはお坊さん以外では人の営みとして普通のことです。これが悪いことなら、お坊さん以外の人皆悪い人といえてしまうでしょう。でも阿弥陀様はどんな人も救うと誓っている。そんな阿弥陀様を信じているのだからこそ、親鸞は自らタブーを破ってその考えを実践してみせたのです。

ある意味とてもロックな生き方をしている人といえるのかもしれません。

展覧会には、親鸞の過去や家庭での様子を奥さんが娘に書き送った手紙などが展示されています。
親鸞の人となりや考えを知ってから見ると、よりいっそう親しみを持って展示品を見ることができるかもしれません。

関連リンク

親鸞聖人七百五十回忌 真宗教団連合四十周年記念 「親鸞展 生涯とゆかりの名宝」
京都市美術館


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