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千利休と向き合う1週間

投稿:2013年12月24日

昔からずっと気にはなる存在でした。茶聖と称され、「侘び茶」を完成させた人、そして時の権力者秀吉に命じられて切腹した人。

気にはなりつつも、どこか近寄りがたい雰囲気の存在・・・そんな彼に急速に魅かれたのは、私が抱いていた彼に対するイメージと実像の解釈にもしかしたらギャップがあるのでは?ということをふと思ったからでした。千利休と向き合うことにした私の1週間のキーワードは「イメージギャップ」です。新しい千利休像と出会うことを目的に過ごしてみました。

<12月9日(月曜日)>
妙心寺北門近くにあるワンダアカフェ(京都府京都市右京区龍安寺西ノ川町3-31)での出会い。
仕事帰り、友人に漫画を読むために誘われて立ち寄った、およそ千利休の「侘び寂び」とは程遠い、むしろ対極にあるようなキッチュなバロック的空間の片隅で利休さま発見!!!

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こうなったら、読む漫画も歴史漫画で古田織部を主人公にした『へうげもの』(山田芳裕作・講談社)に決定です。こちらは千利休の弟子でもあった武将・古田織部の視点を通じて描く時代漫画ですが、茶道や茶器、美術や建築を「美」や「数寄」という切り口で時代を切り取った漫画でもあります。ここで描かれる千利休は、美の追求においては権力者にも怯むことなく物申す人物であると同時に、織田信長の暗殺や秀吉の天下獲りなどをめぐる政治的な駆け引きにも影響力をもった「活動家」としての一面もみせてくれます。

<12月10日(火曜日)>

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(PHP文庫『利休にたずねよ』山本兼一著)

最近公開された映画『利休にたずねよ』の原作となる山本兼一作の歴史小説を完読。
作者の執筆のきっかけを語る言葉が興味をひきました。

「利休好みの水指を見た時に、匂い立つような優美さを感じ、侘び寂びがもつ枯れたイメージや利休の人物像に疑問をもった」

と作者の山本氏は直木賞受賞直後のインタビューで語っています。
利休像のギャップに迫ろうとするこの作者の言葉が作品を手に取るきっかけとなりました。

切腹の日の朝から少しずつ時間を遡り、利休自身の視点も含め、いろいろな人から見た利休の姿とその半生を描く作品です。利休の研ぎ澄まされた感性とあくなき美への執着、気迫に満ちたその生き様が、それらを生み出す原点となった若い頃の情熱的な恋へ糸をたぐるような形で描かれています。
茶人としての利休だけでなく、怒りや恐れ、意固地さ、欲深さ、そして何よりも激しい情熱をもった一人の生身の男性としてアングルを変えながら利休を眺めるため、ますます当初の私のイメージとのギャップが生まれ、その人物像に魅了されます。

と同時に、利休が追い求め、執着した「美」についても考えをめぐらすことに。

文中の「茶の湯の神髄は山里の雪間に芽吹いた草の命の輝きにある。丸く小さな椿の蕾が秘めた命の強さにある…」という一文は、藤原家隆の短歌「花をのみ待つらんひとに山里の雪間の草の春を見せばや」(壬二集)を茶の湯の心とした利休の故事(「南方録」より)に基づく一文と思われますが、これを作者は「それは恋の力にも似ている-その明るさと強靭な生命力にこそ、賞玩すべき美の源泉がある」とし、その大胆な視点から利休の生み出した様式美やその底流にある美意識を読み解く意欲作でもありました。

<12月11日(水曜日)>

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http://www.rikyu-movie.jp/
(2014年12月7日公開・京都MOVIX、TOHO Cinema 二条にて上映)

本を読んだので、次は映画です。映画はまた原作とは異なる組立てで利休が切腹を迎える当日の朝から若い頃の恋へと時代を遡っていきます。エンディングも原作とは少し異なるので原作ともども楽しめる内容になっていました。映像で見る良さは、改めて茶道のお点前の所作の美しさや茶入れや茶碗、掛け軸など茶の湯の美術品の美しさを視覚的に楽しめることだと思います。映画のプロダクションノートにもありますが、劇中に登場する数々の名碗は関係者の情熱と協力が結実して本物が用いられ、強烈な存在感と緊張感をスクリーンから感じることができます。特に初代長次郎作の黒楽茶碗「万代屋 黒」は圧倒的な迫力をもって目に飛び込んできました。

<12月12日(木曜日)>

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(岩波新書『千利休 無言の前衛』赤瀬川原平著)

今日は、安土桃山時代を柔軟かつ大胆な発想と感性で前衛的に生きた利休の姿を、究極の前衛芸術家としてとらえ現代の諸相とからめて考察するエッセイを完読。著者の赤瀬川氏は日本を代表する前衛芸術家であり映画『秀吉』の脚本を担当したことが本書執筆のきっかけとなったとか。

大徳寺所蔵の利休像を見たときの感想を「利休という名に連想される茶人の繊細優美なイメージはない。
むしろ…漁業組合の組合長というかそんな感じだ」と言ってしまうユーモアな語り口に思わず引き込まれてしまいます。秀吉と利休の対立も「饒舌な秀吉と無口な利休」という視点でとらえたり、2人の対立を「政治」対「芸術」という単純な枠組みでとらえるのではなく、秀吉、利休双方に内在する己の政治と芸術の相克が複雑な愛憎を伴った確執として顕在化したことが述べられる点も興味深い内容でした。

著者の赤瀬川氏は路上に隠れる建物やその一部、看板や貼り紙など景観とみなされないモノを観察し、鑑賞する「路上観察」を行う前衛芸術家でもあります。路上観察にある「偶然性」や「他力」(人の恣意性を越えたところにある自然の優位や無意識の面白さ)を利休の美意識(「侘びたるは良し、侘ばしたるは悪し」)や生き方(切腹を賜死とする解釈)に見出す解釈はとても刺激的で、一気に安土桃山時代の利休の存在と彼が有した感覚を現代の私たちと近づけさせる、もっというと私たちの時代の先を利休が走っているようにさえ感じる本でした。

<12月14日(土曜日)>

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今朝は少し早起きをして、上京区にある樂美術館へ。利休と同時代を生きた初代長次郎の作品と長谷川等伯の襖絵を見たいというのが今回の訪問目的です。開館と同時に入りましたが、朝から人は多く、小さな美術館でしたが大変な賑わいでした。どの展示室もそれぞれに見応えがありましたが、やはり、私の中で一番印象に残ったのが2階の第3展示室でしょうか。長次郎の作品がずらっと並び、どの茶碗からも存在感がガラスケースを突き抜けて感じられました。長次郎の黒楽茶碗「万代屋黒」も高台は思った以上に華奢な感じで、大きさも大きくなさそうでしたが、茶碗がまとう空気感の厚みたるやすごいものがありました。彫刻を鑑賞するときにも同じような感覚を感じるのですが、たとえばアルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)の作品を挙げましょう。ジャコメッティの作品の多くは厚みも薄く、線も一見すると細いような彫刻が特徴ですが、実際に作品の前に立つと、そのまわりの空気さえ彫刻の一部かしらと思えるほど作品から放つエネルギーがあるのです。
    

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(初代長次郎作「万代屋黒」 )

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(ジャコメッティ作「歩く人」)

長次郎の作品中、現存するもので最古といわれる「二彩獅子」像も迫力ある作品でした。『利休にたずねよ』の原作や映画では獅子像を焼く長次郎を利休が訪ねて茶碗の制作を依頼するシーンが描かれていますが、睨みをきかせて総毛立つ獰猛で華やかな獅子像からどういう軌跡を描いてこの端正な「万代屋黒」にたどり着いたのか作品をみてクリエイティブ・ディレクター利休とクリエイター長次郎の関係にさらに興味が深まります。

<12月15日(日曜日)>
利休と向き合う一週間の締めくくりはやはり「お茶を一服」です!本来ならお茶室でいただきたいところですが、私にとってはお茶室のように心穏やかに過ごせる近所の喫茶店で一服いただきました。骨董を扱うこのお店ではお茶碗も古いものを出してくださいます。本日のお茶碗は江戸時代中期の美濃焼とのことでした。お菓子は鞍馬口の御菓子司「聚洸」のわらび餅。何も考えず、ただお茶とお菓子を美味しいと感じ、活けられている花を美しいと眺め、時間の流れにふっと身を任せることは自分が「今ここにいる」ということに自然と感謝できる時間になりました。

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「イメージギャップ」をキーワードに新しい利休像と出会うことを目的に過ごした一週間でしたが、それは利休の足跡を探す楽しい寄り道をたくさんしながら、最終的には思考から感覚へと私自身が原点回帰する、ひとつの「旅」のようでした。

まだまだ旅は続くようです。次はどんな扉が開かれ、その先にどんな道が広がるのか楽しみです!



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