没後400年 特別展覧会「長谷川等伯」

開催期間 2010/4/10〜2010/5/9

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注目の展覧会

鎮魂と祈りと、夢の果て

息子への思いが生んだ鎮魂の画『松林図屏風』

絵師として、「長谷川等伯」の名は天下に知れ渡りました。しかし、その代償は余りに大きなものでした。何より、息子・久蔵を失ったことはどれだけの悲しみを等伯にもたらしたことでしょう。 自分の『楓図』と共に『桜図』を見事に描きあげた久蔵は、父に勝るとも劣らない才気に溢れていました。頼もしい息子の様子に、これなら次の代も安泰だ、と等伯は将来を楽しみにしていたに違いありません。

そんな愛息を失った、やりきれない思い。その強い思いが生んだ名品とも言われるのがあの国宝『松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)』です。

この絵は記録が残されていないため、描かれた正確な年代もわからず、また紙の継ぎ目のズレや印が後で押されたものと見られることなどから、 完成作ではなく下絵なのではないかとも指摘する研究者もおり、なにかと謎も多い作品となっています。
霧か朝靄の立ち込める空間に、うっすらと浮かび上がり消えていく松林。墨の濃淡と筆致だけで描かれているというのに、 無限の広がり、しっとりとした空気の肌触りさえ感じさせ、自分がまるで本当に画面の中に入っている様な錯覚を覚えてしまいます。
墨の濃淡と余白の美を極限まで追求したこの絵は、どこか近寄り難い危うさとそれでいて離れ難い吸引力を併せ持っています。恐らく等伯は、家族を失ったことへの消え去ることのない悲しみを、 絵という形に変えることで、癒そうとしたのでしょう。どこまでも広がる哀しいほど美しい松林の姿には、等伯の声なき慟哭が封じ込められているかのようです。

等伯の故郷・能登半島の浜辺には、この絵とよく似た風景が広がっています。海からの風に耐えながら浜辺に立つ松林。 次々と家族や恩人を亡くした等伯の眼によぎったのは、もう戻らない覚悟で離れた、故郷の姿だったのかもしれません。 しかしそれも確かなことではありません。その分、この絵は観る人によって記憶の中のどのような景色にも受け取れ、 ぬくもりや孤独、切なさや美しさなど、様々な感情を自由に呼び起こす、独特の奥深さを持っています。 それこそが、この作品が時を越えて多くの人を魅了し続けている所以なのでしょう。

国宝『松林図屏風』(16世紀/東京国立博物館蔵)

松林図屏風

松林図屏風 クリックして画像を拡大

日本でもっとも有名な国宝のひとつともいえる、等伯の代表的作品。 手前は黒々とした濃い墨で荒々しく、逆に背後は淡墨で柔らかく描かれた松は、リアルな奥行き・遠近感を感じさせ、当時の他の作品とは一線を画す画期的なものとなっています。 また、その絶妙な配置と余白のバランスとも相まって、延々と続く空間の広がり、霧の感触まで表現しています。 まさに『描かずにあらわす』という魔法のようなそれ故この作品は、日本の水墨画の最高峰とも評されています。


一族への祈り『仏涅槃図』

絵師である等伯にとって、自分を支え、自分の思いをぶつけられる場所はやはり絵の世界でした。等伯は、久蔵の死の七回忌の年、その思いを昇華するかのように、弟子たち一門をあげて、一枚の大涅槃図を描き上げます

元々仏画を描いていた経験のある等伯、涅槃図はそれまでにも手掛けたことのある画題だったのでしょうが、この絵には格別の思いで取り組んだに違いありません。 鮮やかな描き表装(通常布で作る表装部分も絵として描いている)を含めれば縦10m、横6mにもなるその大きさは、等伯の思いの強さがそのまま形になったようで、観る者を圧倒します。
大画面の中で釈迦の死を嘆き悲しむ弟子や動物たちの姿。これは、親しい人たちを亡くした等伯自身の姿、哀悼の思いを投影したものなのかもしれません。

この絵の裏面には、等伯が篤く信仰した法華教の祖・日蓮聖人をはじめとした僧侶たちの名前や、本法寺の祖・日親上人以下の歴代の本法寺住職、等伯の祖父母や養父母、 そして久蔵ら家族の供養名が記されています。篤い仏への信仰と共に、先立った一族の菩提を弔う、鎮魂の祈り。等伯がこの絵に込めた思いが、書き連ねられた名前には凝縮されています。

重要文化財『仏涅槃図』(慶長4年/1599/京都・本法寺蔵)

仏涅槃図

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東福寺、大徳寺のものと並び京都の三大涅槃図に数えられる等伯最大の作品。あまりの大きさのため、よほど遠くから離れて見るか、首を上下左右にゆっくり振って見なければ、全体の様子がなかなかわかりません。 完成の後は一度宮中で披露された後に、上洛以来何かとお世話になってきた本法寺に寄進されました。釈迦(ブッダ)の入滅と、その死を嘆

く弟子や動物たちが集まっている様子が、画面いっぱいに鮮やかな色合いと等伯らしい力強くも繊細な線で表情豊かに描かれています。この絵には弟子や釈迦の家族などの人々の他に、獅子、象、虎、駱駝(らくだ)など様々な動物の姿が描かれていますが、特に面白いのは当時非常に珍しかった舶来の洋犬が描きこまれていること。等伯はどこかでこの犬に出会っていたのでしょうか?

【POINT】
≪涅槃会(ねはんえ)≫
釈迦の命日・陰暦2月15日の前後に開催される、釈迦の威徳を偲ぶ仏教 行事。江戸時代の書物などによると、本法寺の涅槃会にはこの等伯の『 仏涅槃図』目当てに京都の人々がこぞって拝みに出かけたといい、当時 から非常に有名な作品だったようです。 現在も本法寺の「涅槃会」は毎年3月15日~4月15日まで開催されており、 その際この『仏涅槃図』も一般公開されています。(拝観料:500円/ 京都市バス「堀川寺之内」下車)


夢の果て、新天地・江戸への旅

豊臣秀吉の死後、天下は代わって徳川家康のものとなろうとしていました。秀吉にパトロンとなってもらっていた等伯にとって、 長谷川一門の将来を考えるとそれは不安要素のひとつとなっていたのかもしれません。等伯自身も慶長9年、66歳の時に絵の制作中に高いところから落ちたことが原因で右手を痛めてしまっており、 焦りもあったと考えてもおかしくはありません。一派のためにも、新しいパトロン探しは急務でした。
そこで等伯が決心したのは、新天地・江戸へ向かうことでした。
現在のように交通手段も発達しておらず、既に70歳を越えていた高齢の等伯には無茶にも等しい決断。よほどの覚悟を決めていたのでしょう。

そして慶長15年(1610)、等伯は次男の宋宅(そうたく)と共に長谷川一門の命運をかけて江戸へと旅立ちます。 しかしやはり無理がたたったのでしょう、等伯は旅の途中で病に侵され、何とか江戸に辿りついたものの、その2日目に亡くなりました。享年72歳。 しかし、その生涯は最後まで、希望を捨てず、諦めない、京都に天下を夢見てやってきたときの思いが貫かれていたのかもしれません。

等伯の死後、等伯に並び立つ、その後継者にふさわしいほどの力を持った人物は、残念ながら弟子の中にはいなかったのでしょう。 狩野派も永徳の子・光信らによって再び力を盛り返し、それに押されるように長谷川派は力を失っていくことになりました。 しかし、等伯の息子や弟子たちによるものとされる作品は、京都をはじめとした各地に残されています。 狩野派の作品にも長谷川派の影響が見られる作品が存在しており、江戸時代には長谷川派の絵師が狩野派と共に障壁画の仕事に参加したという記録も残っているそうです。 また、現在も京都で絵に携わる仕事を続けているご子孫の方もいらっしゃるとのこと。長谷川等伯の魂は、彼の残した数々の名品と共に、今も確かに息づいています。

重要文化財『日通上人像』
(慶長13年/1608/京都・本法寺)

日通上人像

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日通上人は本法寺の第10世住職。この肖像画はその死に際し描いたもので、等伯70歳の作。 日通と等伯は、住職と檀家・信徒としてだけに留まらず、長きにわたって交友を続けました。 等伯の描いた日通の姿は、控え目な色彩ながら描線は力強く、彼の清新な人柄が表れていると同時に、生涯の友の死を悼む等伯の思いも伝わってくるようです。

重要文化財『等伯画説』
(16世紀/日通筆/京都・本法寺)

等伯画説
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日通と等伯、二人の友情から生まれたのが日本最古の画論書『等伯画説』。ここには、日通が等伯と交わした会話の内容や等伯の絵画観など、等伯自身を物語るエピソードがつぶさに書き留められています。 今日、等伯のことを私たちが知ることができるのは、まさに日通のお陰とも言えます。

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