没後400年 特別展覧会 「長谷川等伯」

開催期間 2010/4/10〜2010/5/9

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注目の展覧会

好敵手・狩野永徳との対決、極めた頂点、そして…

最大の好敵手・狩野永徳との対決

千利休のバックアップもあり、京都でも大きな仕事を手がけるようになっていった長谷川等伯は、順調に京都の有名絵師の仲間入りを果たします。
しかし、それまで長い間画壇のトップに君臨し、武家や名刹、宮中の貴族にも密接な関わりをもち、代々数多くの障壁画を任されていた狩野永徳をはじめとする狩野派の面々がよく思うはずもありませんでした。突然現れ て自分達が今まで任されていた仕事をかすめ取っていった等伯は狩野一族のプライドを傷つける許しがたい存在となったのです。

重要文化財『千利休像 春屋宗園賛』
(文禄4年/1595)京都・表千家不審菴蔵

重要文化財『千利休像(せんのりきゅうぞう)』等伯の才能を認め、京都デビューの後押しをした千利休。彼との出会いは等伯の人生にとって非常に大きなものでした。 そんな利休の肖像画の代表とされるこの作品は、利休の没後4年を経て描かれたもの。生前の利休に相対して写した表情のスケッチを元に描いたもののようで、非常にリアリティのある描写がされています。直接利休と交流を持ち、彼がどんな人物なのか分かっていた等伯だからこそ描けた肖像画、とも言えるかもしれません。
絵の上部に記された賛文は、等伯が勝手に上がりこんで襖絵を描いてしまった三玄院の住職・春屋宗園によるもの。彼は等伯とも利休とも面識があったそうで、三人の交流も伺わせます。

(因みに等伯は宗園の肖像画も描いています。こちらは前期(4/10~4/25)に展示されますので、是非ご注目を。)

等伯の襖絵(『三玄院襖』)のエピソードはこちら

長谷川等伯物語【中期】

重要文化財『枯木猿猴図(こぼくえんこうず)』
(16-17世紀)京都・龍泉庵蔵(後期展示/4/27~5/9)

重要文化財『枯木猿猴図(こぼくえんこうず)』

当時人気を博していた中国の画家・牧谿(もっけい)の国宝「観音猿鶴図」(大徳寺蔵)の猿図に学びつつ自分の筆法で描き出した作品。 猿のふわふわとした柔らかな毛並み、力強い樹木の輪郭線のコントラストは、等伯の水墨画の真骨頂。また、若干野性味の強い牧谿のタッチに比べ、等伯の猿はより表情がディフォルメされて可愛らしい感じになっています。 また、右幅の親子猿の描写には、等伯の家族を思う優しさも詰まっているかのようです。

※牧谿の作品は、大徳寺で10月10日に開催される「曝涼(ばくりょう/虫干しのこと)」で見ることが出来ます。

長谷川等伯と狩野永徳が直接対決したのは、天正18年(1590)のことでした。等伯のもとに、京都御所で仕事をする機会が訪れたのです。 それは、当時豊臣秀吉が造営していた後陽成天皇御所の対屋(たいのや/天皇の奥方の住まい)を飾る障壁画の制作でした。 それまで秀吉の重臣である京都奉行・前田玄以などの有力者に掛け合い続け、必死で後ろ盾を求めていた等伯にとって、苦労が報われた瞬間です。 一介の地方絵師が天下一の舞台に己の作品を描ける…まさに下克上。等伯の喜びようは想像に難くありません。
しかし、ここで動いたのが狩野永徳でした。 狩野派の誇りともいえる宮中の仕事を等伯に奪われては、面子は丸つぶれ。 これでは一族の地位も危ない―そこで永徳は息子や弟と共に、親しくしていた有力公家に土産を持って馳せ参じ、「長谷川とかいう奴を外してくれ!」と訴えに出たのです。
長い間一族ぐるみで有力者と付き合いのある永徳とあくまで新参者の等伯。 こう出てこられては等伯に勝ち目はありません。 結果、永徳の目論見は成功。 等伯への依頼は取り消しとなり仕事は狩野派が請け負うことに。 等伯の天下一の絵師への夢は、あと一歩のところで目の前から逃げてしまったのでした。

一見すると、永徳のやり方は大人気ない気もします。しかしこんな手を使わなければならないほど、等伯の存在は永徳にとって非常に大きなものになっていたのでしょう。
「長谷川等伯をここで放っておいたら、狩野派がいずれやられてしまう」
そう天下の狩野派の長・永徳に危機感を抱かせるほど、等伯たち長谷川一門は実力が伯仲しつつあった。 この事件はそれを感じさせます。
一族の将来への危惧、等伯という存在への恐れ。 永徳にとってそれはどれほどの心労となったのでしょうか。
そしてこの出来事から一月後、永徳は突然この世を去ってしまうのです。

京都御所

等伯と永徳の因縁の場所となった、京都御所。等伯が一度は仕事を任されかけたのは、同じ敷地・京都御苑の中にある後陽成天皇御所・現在の仙洞御所です。残念ながら今は舞台となった建物はなく、庭園だけが残されています。
見学は無料ですが、事前に往復はがきか直接京都御苑にある宮内庁京都事務所の窓口、またはホームページからでお申し込みを。
宮内庁参観案内ホームページ

夢にまで見た晴れ舞台・鎮魂の障壁画「楓図」

一度は後一歩のところで夢に届かなかった等伯に再びチャンスが訪れます。 永徳の急死によって狩野派は長が居なくなった為に混乱、一時的に力を弱めます。 そして丁度その頃、秀吉の子・鶴松が幼くして亡くなりました。 御歳たったの3歳。 長く子供に恵まれなかった秀吉にとって、待ちに待った跡取り息子の死の悲しみは計り知れません。 そこで秀吉は息子の弔いのために、京都に壮大な菩提寺・祥雲寺(現・智積院)の建立を命じます。そこの障壁画を等伯に任せたのです。 愛する我が子を失った人の悲しみを癒し、天下人の目にかなう素晴らしい作品を描かなければ―そうして等伯が生み出したのが、展覧会のチラシやポスターに使われている名品、国宝『楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)』でした。中心には力強く左右に枝を広げる巨大な楓。 それを彩るように緑や赤の鮮やかな楓の葉や美しい秋の草花達がふんだんに描かれています。 傍らには成長した等伯の息子・久蔵による『桜図』が並び、こちらも見事な枝振りの八重桜が画面いっぱいを花で埋め尽くしています。 豪華絢爛でありながら、まるで木や草花が幼くしてこの世を去ってしまった鶴松を優しく包み込むようなこの絵に、秀吉は大いに満足しました。 天下人の威信をかけた大事業、等伯は見事にその期待に応えてみせたのです。 かくして、等伯は天下に名だたる絵師として、絶大な勢力と栄華を極めることになったのです。 まさに「天下一の絵師」を目指した等伯の夢が叶った瞬間でした。

国宝『楓図壁貼付』
(文禄元年年/1592)京都・智積院

国宝『楓図壁貼付』

天正19年(1591)、3歳で夭折した豊臣秀吉の長男・鶴松の菩提を弔うために建立された祥雲寺(現・智積院)に描かれた障壁画。巨大な木が画面から飛び出しそうな迫力で描かれるこの描写はライバル・狩野永徳が創り上げた「大図様式」を意識させます。 しかし周囲の草花などの自然描写は非常に繊細で可憐、等伯らしさが現れています。 ライバルを認めつつ、そこに自分のオリジナリティを加えるところがまた面白い魅力となっています。

しかし、等伯に待っていたのは、皮肉にも秀吉と同じ「息子の死」でした。自分の後継として将来を期待していた久蔵は、『桜図』を描きあげた2年後、26歳の若さでこの世を去ってしまったのです。 その3年後、秀吉も亡くなります。利休も既にこの世にはなく、等伯は自分を認めてくれた人物を失ってしまったのです。 そして、最大のライバルの永徳ももういません。 絵師の頂点にたった等伯ですが、彼はまるでその引き換えのように数多くのものを失ってしまったのでした。

智積院

等伯と久蔵や弟子達長谷川一門が大仕事を行った智積院。京都国立博物館からもすぐ近く、東大路を北へ少し上ったところにあります。 ここでは『楓図』と共に描かれた、等伯の息子・久蔵の『桜図』を見ることができます。 展覧会で父・等伯の『楓図』を見たら、是非、こちらも併せてご覧になっては如何でしょうか?

拝観受付時間:9:00~16:00
公式ホームページはこちら
http://www.chisan.or.jp/sohonzan/index.html

展示作品と共に辿る、長谷川等伯物語。



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