没後400年 特別展覧会「長谷川等伯」

開催期間 2010/4/10〜2010/5/9

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注目の展覧会

長谷川等伯物語【初期】 能登の絵仏師、京都へ

時は群雄割拠の戦国時代。
長谷川等伯は戦国大名・畠山家の家臣であった奥村家の子として能登の国(現在の石川県)に生を受けました。

幼い頃、染物業を営む長谷川家の養子となり、養父や養祖父から絵の手ほどきを受けます。当初、彼は「信春(のぶはる)」と名乗り、自らも信徒だった日蓮宗関連の仏画を主に描いていました。

「信春」時代の仏画『三十番神図』

等伯が28歳の時に描いた『三十番神図(さんじゅうばんじんず)』は仏画のなかでも、金や朱、青に緑と華麗な色彩が施された作品です。 細部まで描きこんだ描写や派手やかな色彩は、後の絢爛豪華な作風を彷彿とさせます。

『三十番神図』(重要文化財・永禄9年(1566)/富山県高岡市・大法寺蔵)

重要文化財『三十番神図』
永禄9年(1566)/富山県(高岡市)・大法寺蔵

等伯が「信春」と名乗っていた時代に描いた仏画のなかでも、金や朱、青に緑と特に華麗な色彩が施された作品。三十番神とは法華経の信徒の守護神です。 丹念で細かい描写がなされ、「信春」時代の等伯の活動内容や作風を伺う事が出来ます。

■POINT:この絵の面白いところは、神様の背景。枠の中にも小さな絵がそれぞれ丁寧に描かれています。よく見ると、後の等伯の作品にも使われている、楓やふわふわの毛の猿といったモチーフが。是非、他の展示作品と比べてみて下さい。


遅咲きの出発。能登の絵仏師、京都へ。

戦乱の影響で仕事が減り、故郷で画業を続けることが困難になった等伯は、1571年33歳の頃、新たな活動の場を求めて京都へと旅立つことになります。

当時は40歳が平均寿命だったとも言われる時代。30代での再出発はかなりリスクが大きいといわざるを得ません。それでも彼は、更なる大きな舞台・京都を目指したのです。

京都での初仕事『日堯上人像』

妻と息子を連れて上洛した等伯は日蓮宗の寺院・本法寺を頼りました。というのも、彼の生家である奥村家の菩提寺・本延寺の本山が本法寺だったためです。等伯は本法寺の塔頭のひとつに住み込んで制作活動を開始しました。その当時に描かれたのが『日堯上人像(にちぎょうしょうにんぞう)』でした。この絵はその署名によって「信春」が長谷川等伯と同一人物として確認された、能登時代と京都時代の等伯を繋ぐ重要な作品です。

描かれている日堯上人は、当時の本法寺の住職。丁度等伯が京都に上った翌年、30歳の若さで世を去っています。時期としても、等伯が上洛するのにも色々と協力していたと考えられます。亡くなったばかりの住職の肖像画を誰にまかせるかは、お寺にとって非常に重要なこと。また当時肖像画を描くことはなにより名誉な仕事とされていたようです。お寺から依頼されたのか、等伯自身が申し出たのかはわかりませんが、長谷川等伯にとって、恩人の肖像画を描くことが、京都での初仕事となったのです。

この後、等伯は主に京都や大阪の商業都市・堺とを行ききし活動します。

『日堯上人像』(重要文化財・元亀3年(1572)/京都・本法寺蔵)重要文化財『日堯上人像』
元亀3年(1572)/京都・本法寺蔵

本法寺の第八世日堯上人が説法している姿を描いた作品。相手の清らかな人格まで写し取ったかのような精緻な描写は、後に肖像画の名手としても名声を得る等伯の才能を感じさせます。

■POINT:【本法寺】1436年創建・京都市上京区、小川通沿いにある日蓮宗の寺院。長谷川等伯はここの塔頭・教行院に住んでいました。琳派の先駆・本阿弥光悦とも縁が深く、彼の設計した「巴の庭」もあります。すぐ近くには茶道家元・表千家・裏千家もあり、文化人と関係の深いお寺です。



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