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2012年秋季特別展「龍馬の海軍構想」海舟・佐藤与之助(政養)と同志たち

2012/10/24 ~ 2012/12/26


【幕末維新ミュージアム 霊山歴史館】

幕末維新ミュージアム 霊山歴史館

霊山歴史館の2012年秋の企画展では、「龍馬の海軍構想」と題し、龍馬とともに海軍の創設を志した教官や仲間たちにスポットをあて、後に龍馬が設立する亀山社中・海援隊に結実するその歩みをたどります。

朝廷は公武合体策として行われた和宮の降嫁と引き換えに幕府に攘夷の実行を迫り、幕府は文久3年(1963)5月10日をその決行日と決めます。
しかし江戸湾沿岸に比べて大坂湾の防備はあまりにお粗末な状況でした。

そこで幕府は大坂湾沿岸に砲台を築くことを決定しますが、龍馬の師であった勝海舟は莫大に費用がかかる台場の建設よりも、海軍設置の方が有益だと考えていました。 そこで1863年4月23日、海舟は14代将軍・徳川家茂を幕府の軍艦・順動丸に乗せ、大坂湾沿岸の警備状況を視察します。この時、海舟は家茂に海軍操練所の設置と人材育成の必要性を説きました。
これを聞いた家茂は操練所の設置を即座に許可しました。神戸村の小野浜に約17000坪の土地と、年3000両の資金が用意され、ここに海舟や龍馬らが望んでいた海軍設立の足がかりができたのでした。

しかし、龍馬らが構想していたのは幕府の海軍ではなく、「日本共有之海局」「一大共有之海局」でした。これは「日本の海軍」であり、江戸から遠く離れた神戸での設立は大きな意味があったのです。
 同年4月27日には、勝海舟は神戸海軍操練所の責任者を命じられました。しかし、実際に操練所が開設されるのは1年後の元治元年(1864)5月だったため、それまでは大坂北鍋屋町の専稱寺に私塾を開いて門人に洋式操練の指導を行いながら、操練所設立の準備を行うことになりました。
その際、塾頭は元庄内藩士の佐藤与之助(政養)が務めていました。

その後、勝塾は大坂から神戸に移転します。
10月に龍馬が塾頭になったというのが定説になっています。「氷川清話」には龍馬が塾頭だと書かれているほか、勝海舟が江戸土佐藩邸に宛てた要望書に「坂本儀は塾頭申付置」とあるためです。
しかし「明石藩日記」には、「塾頭 佐藤与之助、土州 坂本龍馬」とあり、塾頭は佐藤与之助で、龍馬は外交を担当していたと思われます。
江戸勝塾の時からの塾頭である佐藤与之助は、操練所でも教授方を務めています。

こうして海舟、龍馬、佐藤与之助(政養)の夢見た海軍が開設されることになったのですが...。

なお、今回の展覧会は佐藤与之助(政養)の出身地である山形県遊佐町との共催での開催となります。

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