浅井忠と京都 1900年~1907年

2010/03/15 ~ 2010/04/30


【京都工芸繊維大学美術工芸資料館】

京都工芸繊維大学美術工芸資料館

浅井忠(1856-1907)は、日本近代洋画界の先駆者で、明治時代に活躍した洋画家です。また、美術教育者としても大いに貢献しました。
 明治初期、日本最初の美術学校・工部美術学校で洋画を学び、東京美術学校(現・東京芸術大学)の西洋画科教授を務めていた浅井忠は、1900年、パリで開催された万国博覧会を視察します。
 折りしも当時19世紀末~20世紀初頭にかけて、パリはアールヌーヴォーの全盛期。工芸や装飾といった、それまで副次的なものとされてきたものが「新しい芸術」として脚光を浴びていました。
 彼はそこで、芸術における図案(デザイン)の重要性と将来性を強く自覚します。
 そして浅井は、丁度同じ頃京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学の前身)の開学準備のためにパリを訪れていた中澤岩太と出会い、彼の招きで1902年、京都へ移り住みました。

浅井は京都高等工芸学校の図案科教授として教鞭を執る一方で、若手の陶芸家と「遊陶園」、漆芸家と「京漆園」というグループを結成し、新しい感覚の図案を積極的に提供し、制作活動を進めました。また、元々日本の洋画壇の牽引者として活躍していた彼の名は関西でも広く知れ渡っていました。浅井は彼を慕って集まった関西の洋画家達とも、聖護院洋画研究所、関西美術院をつくり、その中心として関西の洋画壇の教育にもつとめました。門下生には梅原龍三郎や安井曾太郎など後の日本洋画界をリードする人々が多数出ています。
浅井自身は明治40年(1907)に志半ばで病没してしまいます。しかし彼はその晩年に第一回文展の審査員をつとめたり、自ら『武士山狩図』(京都工芸繊維大学蔵)を出品。また、自らのデザインした図案を使った陶器類を扱う「九雲堂」も開くなど、最期まで精力的な活動を行いました。

今回の展覧会「浅井忠と京都 1900年~1907年」では、これまで十分に紹介されてきたとは言いがたい浅井忠の、パリ万博視察から京都時代にスポットをあて、図案と洋画、そして京都時代に描かれた軽妙なタッチの絵画を展示します。また、浅井の要望で「九雲堂」を開いた磯田多佳や、浅井を巡る人々との交流も浮き上がらせます。

CHECK POINT

浅井忠が京都で育んだ、「日本のアールヌーヴォー」

浅井忠が視察した1900年のパリ万博は、「アールヌーヴォーの勝利」と呼ばれるほどのアールヌーヴォーの全盛期。
そこで浅井が見たのは、ヨーロッパに吹き荒れる新しい芸術様式の嵐と、日本のデザイン教育の遅れた現状でした。
1854年の開国以来、海外には数多くの日本の美術品が輸出され、「ジャポニズム」ブームを生み出しました。しかし伝統にこだわる日本の美術品はデザインに全く変化がなく、次第に飽きられるようになってきていたのです。そしてその一方で、新しい芸術様式であるアールヌーヴォーがヨーロッパ中を席捲しているという状況がありました。

衝撃を受けた浅井は、今後の日本のためにも新しい、独自のデザインを生み出さなければならない、図案(デザイン)教育を早急に本格的に行うべきだと考えるようになります。そんな時に陶磁器の技術研究者としてヨーロッパに留学していた中澤岩太に声をかけられ、浅井は京都に移り住むことになるのです。

浅井忠は洋画家出身ではありますが、決して彼のデザインはヨーロッパ然としたものではありませんでした。
彼はアールヌーヴォーの源泉が、かつて海を渡った日本の美術品のデザインにあることを見抜いていました。彼は浮世絵や琳派にも深く興味を示していたようで、その影響も作品の随所に見ることが出来ます。
浅井忠がヨーロッパで再発見し、京都で育んだ「日本のアールヌーヴォー」。そのエスプリを、是非作品から感じ取ってみて下さい。

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