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  3. 人気観光スポットをじっくりアートに楽しむ。高台寺・掌美術館・圓徳院

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京都でも指折りの観光スポットとして知られる、東山の高台寺周辺エリア。

特に春の桜と秋の紅葉、そしてライトアップの名所として知られ、毎年多くの観光客が訪れています。

しかし、ここは桜と紅葉だけじゃない!歴史や文化財を含む、注目すべき見所が数多くあります。

そこで「京都で遊ぼうART」では、スタッフの方へのインタビューを交え、アートの視点から注目スポットをご紹介します!

高台寺 / 掌美術館 / 圓徳院

高台寺

高台寺とは?

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東山の山麓、「八坂の塔」(法観寺)にほど近い場所にある、臨済宗の禅寺。ちなみに、本来の名前は鷲峰山(じゅぶさん)高台寿聖禅寺といいます。

豊臣秀吉が亡くなった後、秀吉の菩提を弔うために正妻・北政所(ねね)が1606年に建立したお寺です。そのため「ねねの寺」とも呼ばれます。

この頃、既に時代は徳川のものとなっていました。しかし秀吉没後の権力者となった徳川家康は、ねねを大変手厚く扱い、財政面はもちろん、自分の家臣に普請役(ふしんやく/建築責任者のこと)を任ずるなど、高台寺の造営に協力しました。

徳川幕府は秀吉を祀る豊国神社など、豊臣時代の関係各所の多くには領地を没収するなど徹底して厳しくあたりましたが、慕う人も多く、関ヶ原後の停戦交渉など政治的にも大きな役割を果たしていた北政所を無下に扱うことはできなかったのでしょう。

創建時、寺院は大変壮麗を極め、9万5千坪もの土地を持つ大寺院だったそう。しかし度々火災にあうなどし、現在では約1万5千坪ほどの大きさになっているとのことです。

しかし現存する多くの建物のほか、収蔵する文化財の多くは国の重要文化財に指定され、貴重な桃山時代の様子を伝えています。

高台寺のみどころ探索

400年前にタイムスリップ!ねねが見ていた景色を堪能しよう!

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庭園

高台寺といえば庭!といわれるほどの名所となっている高台寺の庭園。

桃山時代に活躍した名作庭家で千利休の弟子でもあった小堀遠州(こぼり・えんしゅう)が手がけたもので、国の史跡・名勝に指定されています。

庭園は主に、「臥龍池(がりょうち)」「偃月池(えんげつち)」の二つの池を中心としています。庭の姿は、高台寺が創建された約400年前とほぼ同じ。ねねが実際に見ていた景色を、現在の私たちも楽しむことができます。

遠州は石組や配置に特に定評があり、得意としていました。高台寺庭園は、彼の本領が存分に発揮された、桃山時代らしい華やかな雰囲気のお庭になっています。

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特に美しいのはやはり紅葉の季節!全く波風の立たない池は鏡のようになり、周囲の鮮やかに色づいた木々を映し出します。その姿はまるで絵画のようです。

夜はライトアップが行われ、昼とはまた異なる、艶美で幻想的な表情を見せます。昼と夜、両方の姿を見比べてみるのも一興ですよ。

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観月台(かんげつだい/重要文化財)

偃月池(えんげつち)の上には、書院と開山堂(池と池の間にあります)の建物を結ぶ屋根つきの廊下があります。その途中にある小さな建物が観月台。その名の通り、夜に月を眺めて楽しむための建物です。

それも、夜空に浮かぶ月だけでなく、ちょうど建物の下の池に映りこんだ月を楽しむためにこんな配置になっているのだそう。水鏡に映る月を愛でる...なんとも風流ではありませんか。

ねねはよく、亡き秀吉をしのびながら、ここから月を眺めていたのだそうです。

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臥龍廊(がりゅうろう)

臥龍池の上に立つ、開山堂と山の上の霊屋(おたまや)を結んでいる屋根つき廊下。

途中で山を登っていくので、屋根がぐぐっと反った形で長く伸びているのが特徴的です。名前の由来は、この屋根からきたもの。山へ向かって長く続くその姿を、天へと昇る龍の姿に例えてこの名がつけられました。さながら、屋根の瓦は龍の鱗。山の上の霊屋は龍の頭。少し離れてみてみるとその様子がよく分かりますよ。

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☆この廊下、しっかり天井もついています!とても立派。

スタッフさんのお勧め

もちろん春や秋も美しいのですが、おすすめの時期は冬。

特に臥龍廊の周辺は木々の葉が落ちるので、龍のようなその姿がさえぎられずに楽しめます。

人出も少なく、落ち着いて鑑賞できる時期でもあります。

春・秋限定。お寺で現代アートも楽しめる方丈(ほうじょう)前庭。

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高台寺の庭はこれだけではありません!

方丈(本堂)と勅使門の間には、白砂を敷き詰めた前庭があります。本来、ここは寺院を訪ねてきた朝廷の勅使をお迎えするための場所。普段はフラットな白砂の上に盛り砂が2つ、というシンプルな姿なのですが、春と秋にはここが現代アートの展示会場になるんです!

毎年春と秋に高台寺ではライトアップを行っています。その際に、毎回テーマを定め趣向を凝らしたお庭を作庭・公開しています。

以前には、イタリアのデザイナーとコラボレーションしたこともあったそうです。

まさに現代アートのひとつ、立派なインスタレーション作品です!

公開はライトアップ開催期間のみ。この時だけしか見られない庭の姿、必見ですよ。

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※取材時には、龍をモチーフにしたオブジェが配された姿になっていました。今回は京都の庭師さんによる作品。以前お寺の建物の修復を行った際に出てきた平瓦を利用して、見事な双龍図を庭に描き出しています。

白砂を丁寧に盛り上げ、そこに瓦をうろこ状に重ねて形を造っています。龍の一部は砂に埋まっています。ちょうど雲に体が隠れた様子を上手に表現しています。

庭に撒かれた緑色の石は蓄光効果があり、夜には幻想的な光を放つそうです。

開山堂で絢爛豪華な桃山の美に思いを馳せて。

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池を越えたところにある建物が開山堂(重要文化財)。

元々は持仏堂(朝夕に信仰する仏像を安置する建物)でしたが、後に高台寺の開山である三江紹益(さんこう・じょうえき)禅師が祀られたため、この名で呼ばれるようになりました。

真ん中に三江紹益禅師の像、右側にはねねの兄である木下家定(※)夫妻の像、左側には高台寺を建てる際に普請役として尽力した、堀直政(※)の像が置かれています。

天井に残る秀吉とねねの暮らし

開山堂の見所はやはり天井。

ここには、秀吉とねねの生前の様子が垣間見えるものが残っています。

手前の格子状の天井は、元々は秀吉が使用していた御座舟(ござぶね/貴人が乗るための豪華な屋形船)の天井だったものを、中央部分にはねねが使用した御所車の天井が再利用されています。

金箔地に黒格子は、いかにも派手好きの秀吉好み。秀吉は漆が大好きだったといわれていますから、黒の格子は元々は漆塗りだったのかもしれません。一方でねねの御所車の天井は、金箔地の上に繊細な秋草図が描かれています。ここでも夫婦の使用したものを一緒に使っているところが、二人の絆を感じさせます。

また、内部は創建当時の彩色がよく残っているのもポイント。

梁に描かれた鳥の絵などは、繊細な羽の描写もそのまま!400年前のものであることを忘れてしまいそうです。

建物外部の彩色も、補修の際に復元が行われ、建築当時の極彩色の美しさが蘇っています。
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※木下家定

きのした・いえさだ。北政所(ねね)の兄。
ちなみに、関ヶ原合戦のキーマンとなった小早川秀秋は彼の五男にあたり、後に小早川家の養子となった。
開山の三江紹益とは親しく、彼が住職を勤めていた建仁寺とも関係が深かった。
曹洞宗だった高台寺が後に臨済宗に改宗したのも彼との関係故とされる。

※堀直政

ほり・なおまさ。従兄弟の堀秀政の下で元は織田信長に仕え、その後秀政に従い豊臣秀吉の臣下となる。
山崎、賤ヶ嶽(しずがたけ)、小牧長久手に小田原など、数々の有名な合戦で活躍した。関ヶ原合戦の際に徳川方につき、その際も高い評価を受け、「天下の三陪臣」とも称される。
高台寺の建設の責任者となった際は費用の半分を請け負って大いに尽力した。

建築好きさん、ご注目を。個性たっぷりの茶室たち。

山を登ったところには、二つの茶室が小さな廊下で繋がれた状態で並んでいます。

どちらも千利休の意匠によるもので、秀吉の居城だった伏見城にかつてあったものを、お寺が建てられる際に移築したものと言われています。

秀吉が生きていた頃、共に過ごした思い出の場所の遺構。

ねねは、愛した夫との思い出を、自分が最後に過ごす場所に持ってきたいと考えたのでしょうか。

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傘亭(重要文化財)

一見、田舎風の質素な建物なのですが、中をのぞいてみると、無数の竹が頂点から放射状に組まれていて、まるで唐傘を開いて屋根にしたように見えます。

この個性的な特徴から、「傘亭」の名で呼ばれています。(正式には「安閑窟」といいます)

かつては庭園の池のほとりにあったそうで、全体的に窓が多く、一つ一つが大きめに設計されています。

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時雨亭(重要文化財)

なんと二階建ての茶室!

こちらは元々高台の上に建っていたため、見晴らしをより良くして景色を楽しめるようにと、この構造になったのだそう。

残念ながら、普段は内部公開はされていないのでどのような景色かは見ることができません。ですが、京都の街を眼下に見渡せるすばらしい眺望になっていることでしょう。

DSC_0217.jpg遺芳庵

ちなみに、高台寺には、江戸時代の豪商・灰屋紹益(はいや・じょうえき)(※)とその妻・吉野太夫好みの「遺芳庵」(いほうあん)(右写真)や、「鬼瓦席」、「湖月庵」、「雲居庵」という茶室が境内にあります。

★茶室は時折特別公開・実際に茶室として利用される場合があります。詳細はお寺のホームページなどでご確認ください。

※灰屋紹益

江戸前期に京都で活躍した豪商で文人。父は琳派の祖・本阿弥光悦の甥にあたる光益。晩年の光悦とも親しく、和歌や茶道、蹴鞠にも通じ、当代随一の文化人として後水尾天皇らとも交わった。

六条柳町(後に島原に移転)の名妓・吉野太夫(二代目)を妻とした際は、天皇家の子息だった近衛信尋と争ったエピソードで知られる。

ねねが眠る場所―霊屋は、蒔絵芸術の最高峰。

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霊屋内部

開山堂と臥竜廊でつながっている霊屋(おたまや・重要文化財)。

一番の見所といえるこの建物は、云わばねねのお墓です。左右に秀吉とねねの木像が安置されており、ねねは自身の像の2メートルほど下に葬られています。

そして同時に、桃山時代の蒔絵美術の最高峰とされる作品でもあります。作者の名前も刻まれていたのだそうです。当時は職人が自分の作品に名前を出すことは一般的ではなかったので、その点においてもとても珍しい、貴重なものとなっています。

霊屋の厨子や階段に施されているのは艶やかな黒漆の平面に金粉を蒔いて文様を描いた「平蒔絵」技法のもの。黒の背景に金色の文様のコントラストが美しく映えます。このスタイルは桃山時代当時のの流行最先端、蒔絵の技術の粋を集めたもの。一般にいう「高台寺蒔絵」はこの霊屋の蒔絵と同じ技法やデザインを用いた蒔絵のことを指します。

(ちなみに「高台寺蒔絵」の呼び名は明治に入ってから呼ばれるようになったそう。実は結構最近なんですね。)

★「蒔絵」をもっと堪能したい!★

高台寺には、秀吉とねねが実際に使用していたものも含め、多数の蒔絵作品が収められています。

そんな宝物の数々は、隣接する掌美術館にて随時公開されています。

お寺だけ見て帰ってしまってはもったいない!こちらもぜひ足を伸ばしてみてください。

→ 掌美術館のページへ

★ もっと歴史スポットを堪能したい!★

高台寺の向かいには、ねねが晩年まで暮らしていた住居跡である圓徳院があります。

実際に彼女が暮らした場所を体験したい!という方はぜひこちらにも。

→圓徳院のページへ

隠れ見所スポット「釣鐘」

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「観光ガイドやパンフレットにもあまりない、隠れスポットはありますか?」

そんな質問をしてみたところ、スタッフの方にご紹介いただいたのがこちら。

お寺の釣鐘(重要文化財)です。

釣鐘は創建当時からのもので、実に400年間、高台寺で突かれ続けてきた、云わば歴史の証人。重要文化財にも指定されています。流石に老朽化が進んだため、昨年取り外されて新しいものに交換されました。降ろされてチケット売り場の向かいの建物(庫裏)の中に置かれており、格子扉越しにその姿を見ることができます。

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なお、現在の新しい釣鐘はこちら。大晦日の除夜の鐘の際は、一般の方でも突くことができます。

ただし当然、108組限定。当日は行列覚悟で挑戦してみましょう!

<取材の際は、高台寺・事務長の間宮様にご案内頂きました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。>

高台寺掌美術館

高台寺には北政所・ねねが暮らしの中で用いたゆかりの品々をはじめ、多数の宝物が収められています。

以前は宝物は高台寺の寺院内で公開が行われてきました。それを新たに展示・公開するための施設として平成10年に高台寺の向かい、圓徳院の隣接する建物の二階に開設されたました。それが「高台寺掌美術館」です。

2,30点ほどの展示品数の施設ですが、どれも丁寧に解説がつけられ、分かりやすく展示されています。繰り返し訪れていらっしゃる方も多いのだとか。

展示品は、高台寺の収蔵品のほか、隣接する圓徳院の宝物が中心です。主に豊臣秀吉とねねが生前集めていたものや、実際に使用していた品々が主体となっています。

高台寺といえば漆と金粉で絵を描く工芸(漆芸)技法である蒔絵の一種、「高台寺蒔絵」がよく知られています。ここでは、その「高台寺蒔絵」の作品はもちろん、甲冑や肖像画、陶器などの道具類、仏画、仏像も展示されます。

展示は季節ごとに入れ替えられ、大きな作品以外は殆どが展示替えとなります。ただ、高台寺を代表する美術品である蒔絵の作品は、必ずひとつは見られるそうです。

また、美術・工芸だけでなく歴史に関わる品々も頻繁に展示されています。高台寺に伝わる歴史と美をじっくり堪能できる美術館です。

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歴史上の人物の息吹と暮らしを感じられる名品たち。

掌美術館の展示品の中で特に注目したいのは、二人が実際に暮らしの中で使っていた道具。食器類や化粧道具など、生活の中で用いられた品々は、歴史上の人物としてではなく、実際にこの世を生きた一人の人間としての姿を現代の私たちに伝えてくれます。

高台寺蒔絵の品々

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高台寺蒔絵は、平面に金粉・銀粉を蒔いて絵を描き出す「平蒔絵」の技法の様式。

漆黒の面に金粉を蒔いて文様を浮かび上がらせるため、コントラストが大変美しく際立っています。文様は豊臣家を示す桐紋・菊桐紋をはじめ、特にねねが好んだとされる繊細な秋草文様が多く用いられています。

また、文様の一部に蒔く粉を少なくしてグラデーションを表す「絵梨地」や、細い針状のもので文様を線で刻む「針描」の技法もよく用いられ、大きな特徴となっています。

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「楓桐菊蒔絵薬味壺」(重要文化財)
桃山時代(高台寺蔵)

楓桐菊蒔絵薬味壺(かえできりきくまきえやくみつぼ)

秀吉とねねが実際に使用していたであろう、高台寺蒔絵の薬味壺。現在でこそ、食卓に塩コショウなどの薬味をおいておくのは普通のことです。しかし当時は薬味や香辛料を食卓に並べて使うことは大変な贅沢でした。当時の天下人の豪華な食事を連想させます。

薬味壺にはそれぞれ「こせう(コショウ)」「さんせう(山椒)」「からし」といった中に入れるものの名前も、蒔絵で書かれています。また、ユニークなのはこの壺、実は全部繋がっているんです!上から見るとまるで梅の花のようなデザイン。皆で囲んで使いやすく、見た目にも美しい逸品です。

また、木製ではなく陶器製であることもポイント。普通、漆器は素地に木製の器を用いますが、こちらは陶器に漆を塗って、蒔絵を施してあります。大きな作品ではありませんが、桃山の美と用の技の粋が詰まっているともいえるでしょう。

高台寺の所蔵品には、このような食器類も多く含まれているそうです。

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「桐紋蒔絵化粧箪笥」(重要文化財)
桃山時代(高台寺蔵)

化粧道具

豪華で美しい蒔絵の化粧道具たちは、ねねが実際に日常的に使用していたものです。写真の「桐紋蒔絵化粧箪笥」は今で言うコスメケース。下地にはびっしりと金粉を施し、その上に平蒔絵で豊臣家の五七桐と菊の紋が施されています。

なお、ねねが出家した後に用いた道具はぐっと質素な色の陶器などになります。しかし仏門に入った後はなかなか使わないような美しい蒔絵の道具類を大切に持っていたのは、やはり亡き夫との日々を懐かしみ、思い出として持っていたかった、ねねの気持ちだったのかもしれません。

※菊桐紋と高台寺

桐紋・菊紋の二つを同時に用いている紋を「菊桐紋」と呼びます。

五七桐は豊臣家の家紋としてよく知られていますが、菊紋は天皇家に対し功績のあったものに対し使用を許可されることがあり、これは大変名誉なことでした。これは豊臣家に関わる品につけられる家紋のひとつであり、また高台寺の寺紋にもなっています。

「高台寺蒔絵」の作品でも良く使われるパターンで、茶道具の世界では、この紋の入った蒔絵のことを「高台寺蒔絵」と称しているそうです。

緋羅紗履(ひらしゃばき)

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緋羅紗履(高台寺蔵)

鮮やかな緋色に金糸で丁寧に刺繍が施された、ラシャ製の履物。今でいうスリッパです。400年前のものとは思えないほど状態がよく、色あせも殆どありません。ラシャ特有の表面の毛羽立ちも確認できます。これは豊臣秀吉が使っていたとされる、西洋からの輸入品です。元はねねに仕えていた人の家に代々伝えられていた品で、後に高台寺に寄贈されたのだそうです。

秀吉は宗教の布教活動は禁止しましたが、一方で西洋との貿易(南蛮貿易)に関しては積極的な姿勢をとっていました。その中で手に入れた一品だったのでしょう。実際にはこれとおそろいの色のビロードのマントなども持っていたとか。まだまだ異文化との接触は少なかった時代、西洋の珍しい品を手に入れたことは彼の天下人としての象徴ともいえます。

この他にも、歴史好きにはたまらない品も数多く展示されています。

取材時に展示されていた中には、大河ドラマ「江」の主役・お江に関連したものも多数。

意外に思われそうですが、お江の位牌は高台寺にあります。

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これはお江が徳川秀忠に嫁いだ際に、一度豊臣秀吉の養女となってから迎え入れられたため。北政所(ねね)とは義理の母子となったのです。早くに実の母(お市の方)を亡くした彼女にとっては、ねねは本当に母代わりだったのかもしれません。ねねが亡くなるまで二人の交流は確かに続いており、お江の位牌も高台寺にも伝わったのだそうです。

ほかにもお江の姉・淀君(茶々)の子である秀頼とねねの文通の跡や、お江の夫である秀忠からの手紙なども展示されていました。

歴史の授業で習ったような、誰もが知っているような有名人の名前が次々と登場して驚いてしまいます。分かりやすく手紙の内容も解説されているので、崩し字は読めない方も安心。歴史上の人物たちの親密なやりとりからは、知られざる関係性も見えてきます。

また、同時にねねと高台寺が、様々な勢力の間に立つ重要な存在であったことも、伺い知れるのではないでしょうか。

※ここでご紹介した展示品は、常設ではありません。時期によってはご覧になれない場合がございます。予めご了承ください。

※展示品の詳細につきましては、直接施設までお問い合わせください。

<取材時は、副館長の田川様にご案内を頂きました。この場を借りて御礼を申し上げます>

圓徳院

高台寺の向かい側にあるのが、圓徳院。

豊臣秀吉が亡くなった後、仏門に入った北政所(ねね)が晩年までの約20年を過ごした住居だったところです。ねねは圓徳院と向かいの高台寺を行き来し、秀吉の菩提を弔いました。また、政治的にも重要な立場にいたねねは交友関係も大変広く、 圓徳院には彼女を慕う大名や僧侶、茶人や歌人などの文化人が訪れ、一種のサロンのような場所にもなっていたそうです。

ねねが亡くなって9年後、彼女を支えていた甥の木下利房が、高台寺の三江紹益(さんこう・じょうえき)和尚を開基に迎えて、住居を寺院に改めました。以後、 圓徳院は高台寺の塔頭のひとつとなり、そしてねねの実家である木下家の菩提寺にもなりました。

特に立派な庭園(北庭)が紅葉の名所として知られていますが、見所はそこだけではありません。貴重な美術作品にも出会えるスポットでもあるんですよ。

ここでは、 圓徳院の見所となる場所や美術作品をピックアップしてご紹介します。

伏見城の遺構をそのまま移築。ねねの思い出の詰まった建物と庭園

一見、 圓徳院の入口の門(長屋門)はお寺というよりは武家屋敷を思わせます。これは元々ここがお寺ではなく木下家の屋敷だったころの名残。また、主な建物や紅葉で知られる北庭も、元々お寺としてのものではありません。これらは、生前の豊臣秀吉とねねが共にくらしていた、伏見城のもの。ねねが 圓徳院に移り住む際に、伏見城の化粧御殿と前庭を丸ごと移築したのです。

(化粧御殿(現在の方丈)は平成6年に解体修理が行われました)

北庭(国指定名勝)

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伏見城でねねが暮らしていた化粧御殿の前庭を、建物と共に移したもの。現在は北書院と茶室の前庭となっています。作られた当時の姿がほぼそのまま残っている、桃山時代のとても貴重なお庭です。

ごつごつとした大きな岩が数多く配置されている豪華でダイナミックな形は桃山時代らしい造形とされ、同時に元々お城の庭であったことも伺わせます。ご案内頂いたご住職の後藤正晃さんによれば、「こちらのお庭は秀吉好で派手ですね」とのことでした。

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岩は元々伏見城の庭として作られた際に、全国各地の大名から寄進されたものです。

元は賢庭という人の作庭でしたが、後に千利休の弟子で桃山~江戸初期の名作庭家として知られる小堀遠州が手を加えています。

様式は池泉回遊式(池を中心に配し、周囲に路をつくり、山や池の中に設けた島や橋、石などで各地の景色を表す様式)ですが、水はなく、枯山水のお庭になっています。

枯山水は、水を張らずに白い砂利や苔などで水がある雰囲気を表したもの。日本のオリジナルの庭園様式です。「実際に水があるよりも面白みがある」として禅寺では流行のスタイルとなりました。

このお庭の特徴は、大きな岩を「縦置き」にしているところです。住職さんによれば「もし千利休がこの庭を作ったなら、横置きにして安定感を出すと思います。しかし、ここではあえて不安定な縦にして、岩に自己主張をさせているんですよ。ここは秀吉好みらしいところかもしれませんね」とのこと。

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また、岩の配置も見どころ。縦にした岩の左右には、必ず小さな石を並べて、3個1組・三角形のまとまりになるようにして各所に配置しているのだそうです。

「庭全体が三角形のパーツを沢山組み合わせた構造になっているんです。庭造りにはそういう、幾何学の美という面白さがあるんですよ。

実際はそこまで敷地が広いわけではないお庭なのですが、一見するととても広くも見えます。これも、庭が庭を眺める人がいる建物(北書院)へ向かって三角形・扇状に広がる形になっているため、目の錯覚で奥行きが感じられるようになっています。まさに空間の芸術です。」(後藤住職)

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いつ訪れても違った姿が楽しめるのがお庭の面白さ。紅葉シーズンはもちろんですが、他の季節の姿も楽しんでみたいものです。

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スタッフさんのお勧め
住職さんにおすすめの時期を聞いてみました。

「父(後藤典生 閑栖住職)は冬の方が「枯れ」た感じ禅寺らしくていい、と言っていますね。私自身は初夏の、新緑が気に入っています。この季節にもぜひ見て頂きたいですね」

茶室

北庭に面する茶室は、江戸時代に建てられたもの。実際にお茶が飲めるようになっています。路地を抜けて、狭いにじり口から入る小間(三畳台目)のお茶室。茶道の経験のない方でも気軽に体験できます。北庭前の建物(北書院)にて、スタッフの方にお申し込みください。

(抹茶(お薄)点て出し:500円 ※予約不要)

南庭

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方丈の前にある南庭は、白砂の線引きが映える枯山水の庭。こちらは秀吉好みの北庭に対し、「ねね好み」を意識したつくりです。庭の管理を担当している北山造園の庭師・北山安夫さんによるもので、落ち着いた女性らしい雰囲気の美しいお庭になっています。

「お茶の世界では、庭に花を植えず部屋に一輪だけ活ける、というのが良いとされています。ですが、このお庭はお花が好きだったねね様を想って、とても花の多い庭になっているんですよ。」(後藤住職)

お花は季節によって違うものが楽しめます。秋冬は主に、可愛らしい黄色の花・石蕗(つわぶき)が見どころだそうです。

桃山と近現代の芸術を堪能。障壁画

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方丈では、様々な障壁画を見ることができます。桃山時代に活躍した名絵師・長谷川等伯の傑作と共に、現代の日本画の巨匠の作品も楽しめるのがここの見どころ。

ぜひ、お寺の空間で日本の美術の傑作と向き合ってみてください。

長谷川等伯「山水図襖」(さんすいずふすま・重要文化財)

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2010年に京都国立博物館で開催された「等伯展」でも取り上げられた、長谷川等伯の傑作。かつ、彼の人生のターニングポイントとなった作品です。

故郷の石川県七尾から京都に出てきた等伯は、千利休に評価されて京都の画壇へと躍り出ます。その後、51歳になった等伯は利休の紹介で大徳寺三玄院の襖絵を描くチャンスを得ます。しかし住職はそれを断り続けました。幾ら利休の紹介とはいえ、等伯は京都ではまだまだ無名でした。また住職自身の好みもよりシンプルで禅らしいものが好きだったようで、「別に絵はいらない」と思っていたようです。

しかし等伯は、自分が画壇で出世する最後の機会と思い、諦め切れませんでした。そしてある日お寺を訪ねた際に住職が留守であることを知り、勝手に部屋に上がりこむと、襖にあっという間にこの絵を描いて去っていたのでした。後に帰ってきた住職は当然怒りましたが、同時に等伯の見事な力量に感心し、そのまま襖として用いたのだそうです。

「ねね様とはどうであったかわかりませんが、豊臣秀吉公と長谷川等伯は確実にその後顔を合わせていますから面識があります。それに元々豊臣の五七の桐紋が入っていますし、それを考えてもこの絵が圓徳院に伝わったことは価値があると思います」

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この作品のポイントは、まさに襖用の唐紙(壁紙)を生かして描かれていること。白く浮かび上がる無数の桐紋は元々の紙に施されていたものですが、普通はこのようなタイプの紙に絵は描きません。しかし等伯は桐紋だけの描かれた紙を見て、「これを雪に見立てれば良い」と思いつき、紙の柄を活かして絵を描いたのです。

「とっさにそういうことを思いついてしまうところ、やはり等伯のセンスは普通ではない、ずば抜けていたんだな、と思います。

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また、この絵は京都の風景ではなさそうなんですよね。恐らく、故郷の七尾の風景だと思います。等伯にとってもこの作品は自分が出世するためのラストチャンスと思って描いたものだったでしょうから、敢えて自分の得意なモチーフを描いたのではと思います」(後藤住職)

圓徳院には、全部で36枚あるうちの32枚(夏の図、冬の図など)が伝わっています。

「白龍図」

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現在方丈の庭に面した部屋を飾っている作品。こちらは現代の日本画家・赤松燎(あかまつ・りょう)さんによるもので、平成6年の方丈の解体修理に伴って描かれたそうです。赤松さんにお願いしたのは、先々代のご住職(現ご住職のお祖父様)の熱心な指名によるものだったのだとか。

「最初は等伯と並べられるなんて、と何度もお断りされたんですけど、何とか口説き落として描いていただいたそうですよ(笑)」

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赤松さんのイメージでは、絵の中心・荒れ狂う波間から天に昇ろうとしているのが、天下を制した豊臣秀吉を。そして周囲に描かれた海鵜(うみう)たちは、子飼いの武将たちを表しているのだそうです。

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実はこの作品は、赤松さんの遺作。作品のタイトルも赤松さんが名づけたものではないのだそうです。

「祖父からは等伯に代わる次世代に向けての作品を、というリクエストがあったようです。そこで赤松さんは右端に船を押し出す漁師の絵などを描こうとされていたのですが、それを迷っておられて、結局決められないままに亡くなられたんです。なので完成した後につける絵本来のタイトルも決められていないんですよ。今私たちは「白龍図」と呼んでいますが、もしかしたら別のタイトルがついていたかもしれませんね」

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赤松さんご自身も依頼を受けることになった際、既にかなりお年を召していたため、これが自分の集大成となる作品と考えておられたそうです。そこで、自分が得意としているモチーフである龍・海原・鵜を描いたのだといいます。

「赤松さんは注文をお受けくださる際に条件を出していたんです。決して蔵の中に閉じ込めないで、100年はこの場所に置いておいてくれ、と。もう20年近く経っていますが、あと80年はここに置かせて頂くことになりますね」

現代の画伯が己の全てを込めて描き上げた傑作。咆哮する龍や荒波からはそのエネルギーが迸っているようです。

※方丈には、ほかにも「雪月花」「松竹梅」の襖絵があります。こちらは赤松さんが亡くなった後、「白龍図」を引き継ぐ形で弟子にあたる志村正(しむら・ただし)さん、木下育應(きのした・いくおう)さんが描いた作品です。どちらも美しい金碧障壁画です。「雪月花」の図はお寺で結婚式をする際に人気なのだとか。

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<取材時は、圓徳院ご住職の後藤正晃様にご案内をいただきました。この場を借りて御礼を申し上げます>



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