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2012年、京都の初春は浮世絵ブーム!?
1月2日からの美術館「えき」KYOTOでの「北斎の富士」展に続き、
2月1日からは京都文化博物館にて「ホノルル美術館所蔵 北斎展」が開催されます。
あまり美術に詳しくなくても、葛飾北斎の名前や、豪快な大波と富士を組み合わせたダイナミックな絵など作品には見覚えがある!という方も多いのでは。
しかし、ぶっちゃけよくわからない...浮世絵ってなに?そんな方もそうでない方も、ちょっと知っておくとより展覧会が楽しめる豆知識をご紹介します!

浮世絵のミカタ:1
ぶっちゃけ、「浮世絵」って何?

浮世絵、という単語はよく聞くけれど、どういうことかはよくわからない...そんな方もいらっしゃるのでは。
「浮世絵」というのは、江戸時代に成立した絵のジャンル名。錦絵、とも呼ばれます。

「浮世絵」の「浮世」とは、「現代」の意味があります。
言ってみれば、「浮世絵」=「現代を描いた絵」
絵が描かれた当時の日本の様子や町の人の暮らしぶりに沿った内容を描いたものなのです。
取り上げられる題材は、演劇や文学から、ファッションなどの風俗、風景まで実に多彩。どれも、当時の人々が親しんだものが基本になっています。

浮世絵のミカタ:2
浮世絵=版画、とは限らない。


職人技から生まれる庶民のアート―「木版画」


hokusai5.jpg 葛飾北斎「地方測量之図」(ホノルル美術館所蔵「北斎展」後期展示)
嘉永1年 横大々判錦絵(1985年ジェームス・A・ミッチェナー氏寄贈)
撮影:ティム・シーゲルト ©Honolulu Academy of Arts

※北斎晩年の作。幕府による地方測量(地図作り)の様子を描いたもの。当時使用されていた方儀(羅針盤・方位計・望遠鏡を組み合わせたもの)などの測量道具も描かれ、当時の様子がよくわかる。
浮世絵といえば、やはり版画が思い浮かびます。
当時の版画は木版画
絵師(画家)が下絵(版下)を描き、それを木の板に丁寧に写します。それを専門の版彫り職人(彫師)が版に仕上げ、これまた刷り専門の職人さんが一枚の絵として刷り上げる、という分業制でした。(途中、絵師からのチェックが入ったり色あわせをしたりもします)
カラフルな多色刷りになるほど、各色ごとに版木を作らなければならず、またぴったりとずれなく刷り上げなければきれいに仕上がらないので、手間もかかります。
まさに職人技の世界です。

それでも、同じ絵を何枚も刷り上げられる版画は一点ものの絵に比べれば安価で、一般庶民でも手軽に購入して楽しむことができました。今で言う雑誌のグラビアやピンナップ、チラシやブロマイドに近い感覚のものだったようです。浮世絵版画はどちらかといえば庶民のアートだったのですね。
(そのため、ヨーロッパに浮世絵が伝わった際には、輸出された陶磁器などの包み紙に使われていたこともあったとか...)


また、同時に当時の世相を示すメディアとしての役割も担っていました。モチーフに幕府の政策への皮肉を含めて描いたいわば「風刺画」のようなものもありましたし、流行のファッションや町で評判の美人(今で言うなら読者モデルでしょうか)を取り入れたもの、お店の広告の役割をしたものもありました。
その後明治時代まで下ると、ジャーナリズムの役割を担い「新聞錦絵」と呼ばれるものも生まれました。


一筆入魂、絵師の腕の見せ所―「肉筆画」

hokusai4.jpg 葛飾北斎「渡舟図」(ホノルル美術館所蔵「北斎展」前期展示)
天保年代初頭頃 絹本着色・軸装
(1957年ロバート・アラートン氏寄贈)
撮影:ティム・シーゲルト ©Honolulu Academy of Arts

では、浮世絵の絵師は版画しか描かなかったのでしょうか?

というと、そうではありません。

彼らも時によっては、直筆で絹や紙に絵を描き、仕上げることがありました。
そんな作品を「肉筆画」と呼びます。
多くは当時の富裕層からのオーダーメイド。誰でも買えるようなものではありませんでした。

しかし肉筆画はその絵師の腕の見せ所。絵師たちは一点一転精魂をこめて描きました。残存数は少なくなかなかお目にかかる機会はありませんが、肉筆画を見ればその絵師のセンスや技量がよくわかるとか。

京都文化博物館で開催される「北斎展」では葛飾北斎の肉筆画が数点出品される予定です。(上の絵もそのひとつです)
この機会にじっくりと、その技に目を凝らしてみては。

(2012/1/30更新)

浮世絵のミカタ:3
葛飾北斎、ってどんな人?


「描く」ことそのものに生きた「画狂人」・北斎

hokusai2.jpg 葛飾北斎「雪松に鶴」(「北斎展」前期展示)
天保5年頃(1835)長大判錦絵
(ホノルル美術館蔵/1970年ジェームス・A・ミッチェナー氏寄贈)

撮影:ティム・シーゲルト ©Honolulu Academy of Arts
葛飾北斎は、宝暦10年(1760)、江戸で生まれました。
幼いことから手先が器用だった彼は、浮世絵の版木の彫師の下で修行して絵に親しみ、19歳の時には当時の売れっ子浮世絵師だった勝川春章に弟子入り。翌年には「勝川春朗」の名で画壇デビューを飾ります。

向上心と好奇心旺盛な北斎は狩野派や中国絵画、西洋画などあらゆる絵画の技法を学び、ジャンルも美人画、役者絵、本の挿絵に相撲画など多彩な浮世絵を手がけ、独自の画法を確立していきました。
一時は描くことへの情熱のあまり、師匠に黙って別の流派にこっそり勉強しにいったために破門されてしまったこともありました。北斎は困窮してしまいますが、浮世絵の下絵はもちろんのこと、内職としてうちわやちょうちんなどにも、とにかく手当たり次第に描きまくり、決して描くことをやめませんでした。

彼の名を不動にしたのは、連作風景画「富嶽三十六景」。これにより北斎は風景画を浮世絵の代表的なジャンルとして確立しました。
この作品を手がけたとき、北斎は既に70歳を過ぎており、他の絵師に比べるとずいぶんと遅咲きでした。しかし森羅万象あらゆるものを「描く」ことに執念を燃やす北斎は、老いてもまったく意欲は衰えず、晩年には銅版画やガラス絵などを試みたり、油絵にも関心を寄せていたといいます。

結局北斎は90歳で亡くなるまでひたすらに絵を描き続け、約3万点ともいわれる数の作品を残しました。亡くなる際には「天があと10年、命永らえることを許されたなら...せめてあと5年許されたなら、私は必ずや本物の画工となれただろうに」と言い残したとか。

最後までまだまだ自分は発展途上、もっと上手くなりたいと願っていた北斎。
彼の墓には「画狂老人」の名前が刻まれているそうです。これは北斎自身が自分のことを「画狂人」と称し、使っていた号(絵師としてのペンネーム)のひとつ。実に言いえて妙、といったところでしょうか。




浮世絵のミカタ:4
北斎の傑作「富嶽三十六景」のミカタ。


「富嶽三十六景」とは

hokusai1.jpg 葛飾北斎「富嶽三十六景 凱風快晴」(「北斎展」前期展示)
天保2年前後(1830-32) 1970年ジェームズ・A・ミッチェナー氏寄贈
撮影:ティム・シーゲルト ©Honolulu Academy of Arts

「赤富士」といえばこの絵を思い浮かべる人も多いのでは。富士の美しい形がよくわかる一枚です。
北斎の数多くの作品の中でも、その名を世にとどろかせた最高傑作「富嶽三十六景」は外すことはできません。
これは絵そのものの名前ではなく、1831年~35年にかけて連作として刊行された絵のシリーズタイトルです。

浮世絵における風景画は特に全国各地の名所が好んで描かれたため「名所絵」と呼ばれていました。今と違って交通網が発達しておらず頻繁にあちこちを行き来できなかった当時の人にとって、名所を描いた絵は旅行気分が味わえる貴重なメディアでした。また、当時は神社やお寺への参拝がてらの旅行・名所めぐりが庶民の流行にもなっており、その際登山も山岳信仰とあいまって人気のレジャーとなっていました。
数ある山の中でも江戸の人々に一番身近なものは富士山です。これに目をつけた版元(出版社)は、北斎に富士の絵を出さないか、と声をかけたのです。

北斎は富士を描くことは一種のライフワークとしていたようで、いかに富士を効果的に画面に取り入れ、どのように描くかを長い間研究し続けていました。
「富嶽三十六景」に使われたのは、北斎が8年以上にわたって書き溜めてきた富士のスケッチ。その長年の努力と蓄積された技量が遺憾なく発揮されています。
西洋画で用いられる遠近法の活用、モチーフである富士を画面いっぱいに描いたり逆に遠景に配したりというメリハリの利いた構図、建物の柱などを生かして画中画風ににするなどの大胆な表現、そしてともに描かれた各地の人々の生き生きとした姿...これぞ北斎の集大成ともいえます。

「北斎展」ではこの「富嶽三十六景」の他、「諸国名橋奇覧(全11図)」、「諸国瀧廻り(全8図)」、「琉球八景(全8 図)」、「詩哥写真鏡(全10図)」、「百人一首姥か絵説(全27図)」といった6種の揃物(シリーズ作品)を紹介します。

「富嶽三十六景」には「表」と「裏」がある

hokusai-eki2.jpg 葛飾北斎「富嶽三十六景 尾州不二見原」(「北斎展」後期展示)
天保2年前後(1830-32)

なんと巨大な桶を枠にして富士を配してしまった!という大胆な構図の作品。北斎のセンスの高さがわかります。遠近法もしっかり活用されていますね。職人さんの生き生きとした動きは「北斎漫画」にも見られる描写です。

「富嶽三十六景」は大ベストセラー作品となり、当初は名前のとおり36枚のシリーズとなる予定でいしたが、あまりの人気のために追加で後に10枚が追加発表されました。
「三十六景」というタイトルなのですが、実際は「四十六景」なのです。

後に追加された10作品は、それまでの36作(表富士)に対し「裏富士」とも呼ばれています。
(有名な「神奈川沖波裏」や「凱風快晴」は"表富士"に含まれています)
先の36作(表)と追加分10作(裏)の違いは、ずばり輪郭線の色でわかります。

当初から出版予定だった36作(表富士)は、北斎が指示して輪郭線を青色で刷らせています。これは主線が黒よりもやわらかく見え、画面が明るくなるという工夫でした。
対して追加分は、墨摺りのため線が黒くなっています

線の色が違うとちょっと雰囲気も変わって見えます。見比べてみてはいかがでしょうか。



「富嶽三十六景」と「青」

空の色、海の色、そして山の色...
「富嶽三十六景」には、「青」の色が効果的に、かつたくさん使われています。

当時、日本にはドイツ・ベルリンで発見された顔料(プルシアン・ブルー)が中国経由で輸入されるようになりました。日本では「ベロ藍(ベルリン藍のなまり)」の名で呼ばれたこの顔料は、それまでの植物染料(藍や露草)と違って変色しにくく、また水で溶けば黒に近い色から透き通るような淡い色まで、美しい青のグラデーションを表現することができました。

この青の絵の具に魅了された北斎は、この青を活かした作品作りに腐心します。

富嶽三十六景が刊行され始めた初期の作品は、全面このベロ藍一色の「藍刷り」で製作されました。多色刷りになると多くの版木を作らなければならず、コストがかかるのを抑える意味もあったようです。しかし、一色の濃淡と紙の白地が絶妙に生かされた「藍刷り」は、多色刷りの作品とはまた違った美しさと、北斎の技量を味わえるものとなっています。

また、富嶽三十六景以外の北斎の作品にも、この「ベロ藍」の青は頻繁に用いられています。
北斎の作品を見るときは、ぜひ「青」に注目して見てください。

世界に広まったHOKUSAI

hokusai-eki1.jpg 葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖波裏」(「北斎展」前期展示)
天保2年前後(1830-32)

海外では一番「日本のアートといえばこれ!」といわれる作品かもしれませんね。このダイナミックな大波、実際に波を再現してスローモーションカメラで撮影するとこんな感じになるとか。頭のイメージでそこまでリアルに描くとは、恐れ入ります。

「富嶽三十六景」の成功で名所絵は浮世絵の人気ジャンルとなり、これは後に北斎の次の世代にあたる天才絵師・歌川広重の傑作風景画シリーズ「東海道五十三次」など、その後の浮世絵に多大な影響を与えました。


しかし、影響は日本だけにとどまりませんでした。後に作品は西洋へと渡り、印象派の画家たちに衝撃を与えます。特にゴッホは「富嶽三十六景『神奈川沖波裏』について画家仲間に手紙でその素晴らしさを絶賛し、同時代に活躍した音楽家・ドビュッシーはそこから「海」という曲を作曲しています。

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北斎は後の日本の絵師・画家たちはもとより、印象派の画家たちや工芸家・音楽家など西洋の様々な芸術家にも強い影響を与えたのです。鮮やかな色、大胆な構図、確かで生き生きとした描写力に感嘆した芸術家たちは盛んに模写をしたり、自分の作品に取り入れたりし、「ジャポニスム」流行を生み出すきっかけにもなりました。パリでは北斎を神聖視する動きもあったとか...

1999年にはアメリカのライフ誌が選んだ「1000年間にもっとも重要な功績を残した世界の人物100人」に、唯一日本人として北斎が選ばれています。

北斎の魂は世界中に広がった、ともいえるかもしれませんね。


浮世絵のミカタ:5
覚えておきたい浮世絵師たち。

浮世絵の世界では、北斎以外にも数多くの絵師が活躍していました。
ここでは、覚えておきたい絵師を3名、ピックアップしてご紹介します。

東洲斎写楽

sharaku_hamburg.jpg東洲斎写楽
『松本米三郎のけはい坂の少将実はしのぶ』
(ドイツ・ハンブルグ美術工芸博物館蔵)
© MKG Hamburg
突然現れ、突然消えた、正体不明の謎の絵師――写楽。
その名前を存じている方は多いのではないでしょうか。

写楽は北斎よりも少し前の時代、江戸中期に活動していた浮世絵師です。
写楽の名前が画壇に登場するのは、寛政6(1794)年。28点の大首絵(バストアップで大きく人物を描いた浮世絵)で大々的にデビューを果たします。
写楽の画風は、確かな描写感覚とともに、写実を踏まえた強烈なデフォルメ表現が特徴。最も得意としたのは役者絵で、時の人気役者の顔の特徴や演技の個性をしっかり捉え、表情やポーズもダイナミックに描き、それまでにないユニークな作品を生み出しました。
しかし、当時はあまり売り上げは芳しくなかったようです。写楽は役者の容姿の欠点もその人を表す特徴として捉え、誇張して描いていました。それは「格好いい役者絵」が欲しいファンや、欠点を気にしている役者自身からも不評を買ってしまっていたため、売り上げには繋がらなかったのです。
結局、写楽はデビューからほぼ1年後には画壇から姿を消してしまいます。その間に描いたのは、約170点余り。その大半は役者絵で占められています。

しばらく世から名前を忘れられていた写楽ですが、後にドイツの美術史研究家が1910年に「写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家だ」と評したことで、大正時代から日本でも写楽の評価は急速に高まることとなりました。

しかし、彼がいったいどこの誰だったのかは、未だに確実なことはわかっていません。

喜多川歌麿

国際的にもよく知られる浮世絵師として、北斎と並び称されるひとり―喜多川歌麿。
繊細で優美、滑らかな描線が特徴の彼は、さまざまな姿やポーズ、表情の女性美を追求し、数多くの美人画を手がけました。日本の誇る美人画の名手といえばこの人!と言って過言ではありません。

歌麿が活躍したのは北斎より少し前~ほぼ同時代です。出身地ははっきりせず、江戸、京都、大阪...と諸説あります。

歌麿が画壇デビューを果たしたのは安永4年(1775)。当初は役者絵や美人画ですが、少し前に活躍した絵師たちの作風に似たものが多く、まだ自分の作風を探している状態だったことがわかります。
その後歌麿は版元(出版社)の蔦屋重三郎に出会い、彼に援助をしてもらうようになります。重三郎は、「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴や「東海道中膝栗毛」の十返舎一九といった、当時の売れっ子作家の世話もするなど、才能ある人を見抜く力に長けていました。

彼の援助の下で腕を上げた歌麿は自分の画風を確立させます。特に寛政2年(1790)ごろから描き始めた「美人大首絵」で歌麿は大人気を博しました。歌麿は役者絵に用いられていた「大首絵」の手法を美人画に取り入れ、表情はもちろんモデルの環境や日常、性格までも描き出そうとしたのです。また、同時に生身の人間らしい肉感も滑らかな線描で見事に描き、写実性も追及していました。美しさと生々しさ、清らかさと汚さが同時に存在する彼の美人画は、まさにリアルそのものでした。
また、彼はモデルには遊女に花魁だけでなく街中の茶屋の娘など無名の女性もよく使っていました。歌麿のモデルになった女性はたちまち江戸中の有名人になるため、一種のメディアにもなっていたようです。

しかし幕府はこれを風紀を乱す、として度々制限を加えます。歌麿はそれに抵抗、判じ絵(言葉や地名などを絵に置き換えて描くなぞなぞのようなもの)などに形式を変えて美人画を描き続けました。庶民の楽しみを上から押さえつけようとする権力に、歌麿は絵筆で対抗したのです。

そして文化1年(1804)、彼は「太閤五妻洛東遊観之図」で幕府の逆鱗に触れ、とうとう50日も手錠をはめられて強制的に絵筆を奪われてしまったのでした。この絵は江戸時代にはタブー扱いだった豊臣秀吉を描いたもの。しかしそれだけではなく、花見酒にふけって妻たちと遊ぶ姿に時の将軍を揶揄したものだったのです。云わば、一種の風刺画でした。

刑を終えたとき、歌麿は疲れ果て、すっかりやつれてしまっていました。
これを見た人々は「歌麿は長生きしないぞ、今のうちに絵を頼もう」と考え、仕事が殺到。しかし歌麿の絵はかつての輝きを失ってしまっていました。
そして過労が重なり、2年後の文化3年(1806)に亡くなります。まだ50代だったと記録されています。

歌川広重

uk_tokaido53.jpg 歌川広重「東海道五十三次 京都・三条大橋」(1833)
しばしば北斎と並び称されるのが、歌川広重。
安藤広重、の名前でご存知の方も多いかもしれません。(安藤は本名の姓で、広重は

彼が生まれたのは寛政年(1797)、北斎よりは年下です。ちょうど次の世代にあたる絵師ともいえるでしょう。
江戸の火消同心(今で言う消防士)の家に生まれた広重は、幼いころから絵心があり、絵描きになりたいと志していました。しかし>13歳で両親を相次いで亡くし、早々に家督を継ぎます。それでも諦め切れなかった広重は、歌川豊広に入門して絵を学び続け、24歳のとき、親戚の子供に家督を譲って絵師に専念します。

広重は最初は役者絵や美人画も手がけていましたが、中国の絵画(南宋画)も学び、「東海道五十三次」(1833)で大ブレイク。一躍風景浮世絵師として名声を得ます。>

この東海道五十三次は前の年に東海道(江戸~京都間)を往復す る幕府の行列に仕事で加わったことがきっかけになったと言われています。旅の途中、あちこちでであった風景を、ドラマチックに、かつ風雨などの天候も立体 的にリアルに描いた作品は、絵のそのものの良さはもちろん、当時の人々の「旅」への憧れが詰まったものでした。

(一説には、別の人の絵を元に描いたもので、実際に広重は旅をしていないのではという指摘もありますが、否定意見もあり、議論されています)

ちょうど、北斎の「富嶽三十六景」が出版されたのと同時期。北斎と広重により、風景画は浮世絵を代表するジャンルとなったといえるでしょう。 広重はこの後も、ふるさとの江戸の姿を描いた「江戸名所」シリーズも多くてがけ、評価されています。また、甲斐(山梨県)を旅した際のスケッチを元に、富士山を描いた作品も残しています。

広重の作品は、北斎と同じくヨーロッパやアメリカにも伝えられ、当時の芸術家たちに多大な影響を与えました。特にゴッホは浮世絵コレクションでもっとも多く集めたのは広重の作品で、盛んに模写も行っていました。

西洋の画家を魅了したのは大胆な構図はもちろん、美しい「藍」の色もありました。ヨーロッパでは「フェルメール・ブルー」になぞらえ「ヒロシゲ・ブルー」とも呼ばれていたとか。

そんな広重は安政5年(1858)に亡くなります。享年62歳。死因はコレラだったといわれています。


浮世絵のミカタ:6
京都で浮世絵を楽しむスポット

浮世絵に欠かせなかった多色木版刷。

しかし時代が進み、特に明治維新の後に機械印刷など新しい印刷技術が入ってくると、木版刷は取って代わられ、段々と廃れていきました。

芸術の面においても、何人もの職人が一枚の絵を刷り上げるのではなく、下絵から版木の作成、刷り上げまで、すべての工程を一人で行う「創作版画」の手法がとられるようになりました。

しかし、京都では現在も江戸時代の技術を受け継ぎ、木版刷を行っているところがあります。

浮世絵の復元印刷なども手がけるほか、技を生かした新しい作品作りや、雑貨の制作も行っています。現在に生きる浮世絵を、京都で味わってみてはいかがでしょうか。

芸艸堂(うんそうどう)

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明治24年(1891)創業に美術書出版社として創業。
現在、日本で唯一、手刷の木版本を刊行している出版社です。

蔵には創業以来蓄積されてきた貴重な版木が数多く保管されており、中には葛飾北斎や伊藤若冲といった江戸時代の作家下絵を用いたものから、竹内栖鳳ら京都画壇の画集、西陣織の図案など京都ならではのものも多数あります。

特に着物や陶芸作品などに用いられる図案集は明治以後、京都の画家たちも数多く参加して製作され、多くの本が出版されました。その大半はこの芸艸堂から出されたものです。

現在は残された版木やデザイン・意匠を、再び画集として復刊したり、雑貨やファッションの分野にも生かすなど、明治~昭和初期に活躍した近代のデザイナーたちの再評価にも貢献しています。

(ファッション分野では、ユニクロと協力した和柄Tシャツを作成。また、所蔵品に関連する作品が展示された展覧会ではミュージアムグッズ作成にも協力しています)

芸艸堂(うんそうどう)
【京都本店】
〒604-0932 京都府京都市中京区寺町二条下妙満寺前459
TEL:075-231-3613
URL:http://www.hanga.co.jp/


竹中木版 竹笹堂

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明治24年(1891)創業の、木版印刷工房。京都は神社仏閣、老舗の店舗も多いため、古い版木が数多く現存しています。その版木の復刻・修復も行っている、全国的にも数少ない手刷木版専門の工房です。主に料亭や老舗の和菓子店で用いる掛け紙などの制作を行ってきました。

現在まで6代目まで技術は継承されており、うち4代目は現代の名工にも認定された職人。

また、5代目が立ち上げた工房兼ショップ「竹笹堂」は、技術を生かし浮世絵の復刻だけでなく現代的な、モダンでかわいらしいデザインのブックカバーやぽち袋などの和紙雑貨やインテリアの制作・販売を行っており、雑誌やテレビなどメディアにも紹介され、人気を集めています。


国内外での展覧会・デモンストレーションやワークショップも積極的に開催。また、木版技術の体験教室も主宰されています(要問合せ) 


竹中木版 竹笹堂
〒600-8471
京都市下京区綾小路通西洞院東入る新釜座町
TEL:075-353-8585
URL:http://www.takezasa.co.jp/

関連リンク

ホノルル美術館所蔵「北斎展」 葛飾北斎生誕250周年記念

大山崎山荘を作った加賀正太郎の情熱「蘭にみた、夢 蘭花譜の誕生」

→ 浮世絵の技法を駆使した植物図譜の展覧会です。


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