1. 京都で遊ぼうART
  2. 特集記事
  3. 京都MUSEUM紀行。第九回【新島旧邸】

※この記事は掲載時(2012年11月)の情報に基づきます。

特集記事

京都MUSEUM紀行。第九回【新島旧邸】

京都MUSEUM紀行。vol9 新島旧邸

  • 第1回 同志社誕生の地
  • 第2回 暮らしと集いの場
  • 第3回 和の暮らしへの回帰

時代の最先端を生きた新島夫妻。

新島襄は1843(天保14)年、江戸の上州安中藩の藩士の子として生まれました。
時は黒船来航など日本が激動の幕末へと進んでいくころ。新島は漢訳されたアメリカの地理書や聖書の抜粋を見たことなどをきっかけに、アメリカの自由な社会制度を知り、強い憧れを持つようになります。
彼のアメリカへの思いは押さえきれず、ついに1864(元治元)年に数少ない外国船に開かれていた港であった函館に行き、脱国します。
翌年新島は何とか無事アメリカ・ボストンに到着。渡米時に乗っていた船のオーナー夫妻の助力で現地の学校に入学し、本格的に西洋の学問・文化をいち早く身につけた日本人となりました。ちなみに「襄」の名前は、船長から「ジョー」と愛称をつけられていたことからきたものです。
その後明治政府から正式に留学生として認められた新島は、約10年をアメリカで過ごしました。その間に牧師の資格を取り、日本に本格的に西洋の学問を教えるキリスト教主義の学校を作るという決意を胸に1874年に帰国しました。

京都で学校を作るにあたり、特に新島を援助したのが、京都府の顧問格にあった元会津藩士の山本覚馬(やまもと・かくま)でした。ちなみに「同志社」の名づけ親となったのも、英学校の移転先として現在同志社大学のキャンパスがある土地(旧薩摩藩邸跡)を提供したのも彼です。
恩人である山本の元を新島は度々訪問していたのですが、その際に出会ったのが、覚馬の妹の八重、後に新島の妻となる女性でした。

八重は会津藩で砲術師範(鉄砲の扱いを教える役)の家の三女に生まれ、自らも砲術を嗜む勇壮な女性でした。戊辰戦争(1868)の折り、会津藩が明治政府軍に攻められた際には男装して会津若松城での籠城戦に加わっています。その後会津藩が戦に破れ、3年後の1871年に八重はすでに京都にいた兄の覚馬の下に身を寄せました。
二人の出会いには諸説あるそうです。
ひとつは、新島が山本家を訪れた際に、井戸に板を載せた上に腰掛けて裁縫をしていた八重に思わず危ない、と声をかけたという話。夏場だったため、八重は涼を求めて井戸を椅子代わりにしていたのですが、新島には何事かと映ったのでしょう。
他には、新島が当時京都府知事をしていた槇村正直に八重を紹介された、という話もあります。学校設立準備のために槇村の下を訪れた新島は、「君もそろそろ身を固めるべきと思うが、どんな女性がよいか」と尋ねられました。新島は「亭主が東を向けと命じれば3年でも東を向いているような人はごめんです」と答えました。それを聞いた槇村が「それならちょうど良い人がいる」と結婚を勧めたのが八重でした。当時、八重は自分が勤めていた京都女紅場(*1)の運営に対して槇村に度々意見に訪れていました。
1875年、新島が念願の英学校を設立した年に二人は結婚します。なんと婚約してからたった3ヶ月のスピード婚だったといいます。
結婚式はキリスト教式、つまり西洋式のもので、新島の同僚の宣教師・デイヴィスの家で行われました。牧師さんに誓いの言葉を問われるような結婚式は現在ではおなじみですが、京都で行ったのは新島夫妻が初だったのです。

*1 女紅場は女子に読み書き、そろばん、裁縫・手芸などを教えた女学校の前身。当初は華族(元公家)や士族(元武士)の子女のために設置されたものでしたが、後に一般庶民も学べるようにされました。八重は「権舎長兼機織教導式補」という役職で機織を教えていました。現在の京都府立鴨沂(おうき)高等学校にあたります。

新婚間もないころの新島夫妻の写真。
男性が立ち、女性が椅子に腰掛ける構図は西洋の
夫婦写真で用いられるものです。
西洋紳士風の新島に対し、八重は和服に
花飾りのついた婦人帽、ブーツという出で立ちが
印象的です。
(写真提供:同志社大学)

西洋の生活様式が身につき、レディーファーストの心得のある紳士的な新島と、男勝りで自分の意見をしっかり言う性格の八重は大変相性が良く、似合いの夫婦でした。二人は互いを「八重さん」「襄」と呼んでいました。
夫を名前で呼び捨てにし、夫より先に建物に入ったり人力車に乗ったりする八重の姿は、まだ女性は夫に付き従うものと考えられていた時代には大変異質なものでした。そのため、世間からは冷たい目で見られることも多く、八重は「悪妻」と陰口を叩かれることもあったそうです。
同志社英学校の生徒の中にも八重の姿勢を批判する人がいました。その急先鋒だった徳富猪一郎(後の徳富蘇峰(とくとみ・そほう))にいたっては、西洋式の生活をしている新島に合わせて八重が和服でもブーツや西洋風の帽子を身につけて過ごしていたことを揶揄し、「頭と足は西洋で胴は日本という、まるで鵺(*2)の様な女がいる」と非難していました。
しかし、八重自身はまったく世間の声に動じることはなかったといいます。新島も、そんな八重のことをアメリカに住む恩人の奥さんに宛てて「彼女は決して美人ではないが、生き方がハンサムなのです」と書き送っています。
アメリカの女性たちのように、女性が自立し男女が同等の立場で生きていくことが大切と考えていた新島と、その思いを受けとめ堂々と自らを貫いた八重は、まさに時代の最先端を生きていたといえるでしょう。

*2 頭は猿、体は虎、尻尾は蛇という想像上の怪物。西洋でいうキメラ(合成獣)。

暮らしの場、そして集いの場としての家。

まるで談話室のような雰囲気の応接間。風通しがよく日当たりも良いデザインの窓は、京都の気候にマッチしています。
家具はもちろん、テーブルクロスも新島夫妻が生前使っていたものです。
アメリカの初代大統領・ワシントンを描いた銅版画。
新島とアメリカのつながりが感じさせる一品です。
宣教師として西洋式の生活をしていた新島に合わせてか、新島旧邸のほとんどの部屋は板張りのフローリングになっています。
応接間には椅子やテーブル、ソファなどの洋風家具が数多く置かれています。これらはほとんどが新島夫妻が生活していた当時のものです。家具は輸入家具もありますが、実は国産のものもあります。明治時代に作られた国産の洋風家具はあまり残っていないため、大変貴重な史料となっています。いくつかは建物とともに文化財に指定されています。
新島襄は度々、この応接間を学校の職員室や会議室、事務室、教会の集会室など、多目的に使えるスペースとして開放していました。夫婦二人暮らしにしては家具の数が多いように感じるのはそのためです。
時には、学生を呼んで応接間を教室代わりに授業を行ったこともあったそうです。

部屋の片隅には、鉱石や化石、貝殻がたくさん入
れられたガラス扉の棚があります。新島の趣味は
鉱石や化石掘りで、旅先でも収集をしていたとい
います。その数は数百点以上に上ります。

*3「六然の書」 「自処超然 処人藹(あい)然 無事
澄然 有事斬然 得意淡然 失意泰然」と書かれて
いる、勝海舟自筆の書。勝は新島を大変高く評価
しており、明治政府のメンバーにと請願するほど
だったそうです。

*4 聖書マタイ伝第5章のエピソードの漢訳版。
津田梅子の父・仙が中国人の書家雲渓春に書か
せたもの。漢訳版の聖書を見てキリスト教に触れ、
外国への思いを募らせた新島らしい一品です。

同じく応接間には、八重愛用のリードオルガンもあります。大正7年製で、新島の没後に購入され
たもの。
応接間には、勝海舟から贈られた「六然の書」(*3)や、日本初の女子留学生として知られる津田梅子の父から贈られた「山上の垂訓」(*4)などが飾られており、新島の広い交友関係をうかがわせます。また、アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンを描いた銅版画も見られます。かつて脱国してまで留学を果たした新島の、自由の国・アメリカへの強い思いが伺えるようです。

工夫を凝らした、合理的で最先端の設備

暖炉上から伸びるダクトは各部屋の吹き出し口(写真は2階のもの)へのびています。

全体的に内装はシンプルな雰囲気の新島旧邸ですが、実はあちらこちらに当時最先端といえる設備が備えられています。

たとえば、応接間の東南側の隅に置かれている暖炉。鉄板を使った大変質素なものですが、実はこれは「セントラルヒーティング」というシステムで、暖炉に火を入れるだけで家全体を暖めることができる優れものです。暖炉の裏からは銀色に光るダクトが他の部屋や二階へ延びており、暖炉の中の暖かい空気がダクトから各部屋へ分配される仕組みになっています。

また、台所は通常の民家なら土間が一般的だったところを板張りにし、ひとつの部屋にかまどと洗い場、そして井戸を集めています。水が必要になった際はわざわざ外に出ずにその場で調達ができるのです。現在でいうシステムキッチンのような、合理的なつくりになっています。隣接する食堂との間にはハッチ式の配膳棚もついており、大変モダンです。

台所は左からかまど、流し(シンク)、水瓶、井戸と並んでいます。
八重はここで西洋料理も自ら作っていたそうです。同じ部屋には折り
畳んでサイズが変えられる予備のテーブルなども保管されてい
ます。

さらに、実はトイレも見どころです。一件板張りの和風のつくりですが、実は座って用が足せる洋式のトイレなのです。
和の技術で再現された洋式トイレは、もちろん日本でも最初期のもの。大工さんの努力をうかがわせます。

学生たちに向けた温かいまなざし

1階の東南角の日当たりの良い部屋が新島の書斎です。机や椅子、文具は皆新島が生前愛用したもので、当時の姿がそのまま再現されています。
壁一面の書棚はまさに図書室のようです。

新島は、応接間だけでなく自らの書斎までもを、学生たちに開放していました。新島の書斎は壁一面に大きな本棚が据え付けられていますが、蔵書の8割は英語の洋書だったそうです。当時日本では洋書は大変珍しく、入手が困難な代物でした。もちろん学生たちにはとても手が出ません。そこで新島は、自らの蔵書を学生たちに図書館の本のように貸し出したのです。
現在新島の蔵書は同志社の社史資料センターにて保管されていますが、そこには「貸出は90日まで」「又貸し禁止」など図書館の管理票のようなものも残されているそうです。

ダイニングルーム。右の壁側にある棚は台所直結の配膳棚になって
おり、扉をあけると盛り付けがすんだ食事を取り出せるようになって
いました。
また、新島は度々学生たちを招いて、八重の作った食事をご馳走したこともあったそうです。当時は地方から出てきた学生も多く、ほとんどは寮や下宿で生活をしていました。新島夫妻は子供がいなかったため、二人にとって学生たちはわが子にも似た存在だったのでしょう。若いうちに親元を離れ、学校で厳しい教育を受けている学生たちに、共に食卓を囲むことで少しでも家庭の温かさを感じてもらいたい、と考えたのかもしれません。新島夫妻の学生たちへ向ける温かなまなざしが感じられます。
ちなみに新島邸に招かれた学生たちに出された料理はなんと「ビフテキ」や「オムレツ」「ロールキャベツ」といった西洋料理だったのだそうです。実際に当時新島家に招かれた学生たちが残したスケッチに記述が残されています。当時西洋料理は大変珍しく、学生の身分で簡単に口にできるものでもありませんでしたから、学生たちが大変驚いただろうことは想像に難くありません。もちろん食器もテーブルマナーも西洋式です。西洋の学問を学ぶ学生たちに、生の西洋の文化を学んでもらいたいと新島は考えていたのかもしれません。
新島夫妻が使った食器や調理器具も残されています。
左の白い器は蓋付のスープ皿。
真ん中の黒い器具はなんとワッフルベーカー!
新島家の食卓には、和食よりも洋食の方が出されることが多かったそうです。八重は新島や宣教師の夫人たちから西洋料理や洋菓子のレシピを教わり、自ら腕を振るっていました。新島は大変な甘党だったそうで、八重が客人用に作っておいたクッキーなどの洋菓子をつまみ食いしてしまうことが度々あったといいます。そのため食器棚に鍵をかけて洋菓子を隠しておいたところ、新島は八重の目を盗んで鍵をあけ、こっそり食べてしまった…というエピソードも残されています。

旧邸の横(現在新島会館がある土地)には、かつては畑があり食卓で使う野菜を育てていたそうです。植えられていたのはアスパラガスなどの西洋野菜。これも当時は大変珍しく貴重なものでした。

新島旧邸

所在地

〒602-0867
京都市上京区 寺町通り丸太町上ル松陰町18

公開日

※2014年4月〜9月メンテナンスのため、休館。10月以降については公式サイトで要確認。

お問い合わせ

同志社大学 同志社社史資料センター
電話番号 : 075-251-3042
(受付は平日9:00~11:30、12:30~17:00)

公式サイト

http://archives.doshisha.ac.jp/

■料金

無料
※公開場所は母屋1階と附属屋です。
※建物の構造上バリアフリーではありません。

■交通のご案内

京都市営地下鉄「丸太町」下車、徒歩10分
京阪電車「神宮丸太町」下車、徒歩10分
※駐車場・駐輪場はありません。公共交通機関をご利用ください。


  • 第1回
  • 第2回
  • 第3回


  • 京都で遊ぼう総合TOP
  • 京都で遊ぼうART
  • 京都で遊ぼうMUSIC
  • 京都で遊ぼうSTAY
  • 京都の銭湯